岩内町郷土館ブログ

岩内町郷土館でのイベントやお知らせ、
岩内町に関する情報や岩内町の様子などを発信しています。

ひとりごと8月9日 長崎原爆投下の日

 岩内町郷土館には、長崎で被爆し、家族を失いながらも被害者の救済に尽力した医学博士、随筆家の永井隆博士の書簡と「マリア像画」があります。
 寄贈者は、岩内町の増山ヨシさんのご遺族です。増山ヨシさんは、永井博士の著書「この子を残して」に感銘し、母を失い、ボロきれで遊ぶ博士の子供たちを不憫に思い、手作りの人形を送りました。そのお礼状が病床の永井博士から直接届いたのだそうです。

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 綺麗に額装されて、長年大切に保管されていたものを、増山さんのお子さんの手から郷土館にご寄贈いただきました。時折この情報を知り、博士の書かれたものを見たいと希望してご来館する方もいらっしゃいます。

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 永井博士はベストセラー「この子を残して」の他にも、「長崎の鐘」という名曲を残した方です。朝ドラ「エール」でも吉岡秀隆が「永井武」役で出ていましたね。

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 1945(昭和20)年の8月9日の長崎原爆忌から、今年は77年。1951(昭和26)年の永井博士のご逝去から71年。この町にいた一人の女性の真心が、悲惨な運命を背負った被爆地に届いていたこと。尊いことだと思います。
 そういえばと、よく「針仕事」をする町のお母さん達の姿を思い出しています。お手製の巾着やちょっとした小物など、とても気前よくゆずって下さいます。岩内の母さんの真心って本当にあったかいです。

posted by 岩内町郷土館 at 2022年08月09日10:38 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと6月25日(土)より「岩内のアスリートたち」

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 岩内町郷土館第二回企画展「岩内のアスリートたち」が、6月25日(土)より。現在着々と準備をすすめており、町内の関係者各位さまにも資料ご提供などのご協力を頂いているところです! ありがとうございます!

 郷土館二階に保管されている競技用自転車は、昭和31(1956)年、メルボルンオリンピック自転車競技に出場した、郷土岩内出身大沢鉄男選手の自転車です。

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 昭和29年(1954)の岩内大火から2年後。不撓不屈の岩内人たちが町を一から再建し、公共の建築物をわずか2年で再建、復興が宣言されたその年のこと。大沢選手のオリンピック出場は、町の復興に花を添えるかのような誇らしい、明るいニュースでした。もちろん町をあげての応援がなされました。
 その競技用自転車が、今はひっそりと郷土館の二階にくつろいでいます。「SILK」というメーカーは、当時の片倉自転車というメーカーの「片倉シルク」というブランド。国産のロードレース用自転車の嚆矢であり、オリンピック日本選手の公式自転車でした。なぜシルクという名前なのかというと、片倉工業は元々製糸紡績業の大手であり、世界文化遺産となった「富岡製糸場」の所有者であったという歴史があります。車体の部分を丁寧に細かく観察してみると、知らなかった歴史がまた一つ、また一つと浮かんできます。

 岩内のスポーツの歴史を取り上げる企画展。実は初の試みです。岩内は文化、芸術の町ということはこれまでも多く取り上げて来たのですが、忘れてならないもう一つのお宝は、町のスポーツの英雄(ヒーロー)です。そしてそのお宝が生まれる背景には、古くから豊かな町であったからこその、スポーツ振興の歴史がやはりあったのです。

 特にスポーツに興味はないという人でも、甲子園に地元の高校が出ると「ガンバレ!」って思います。最近ではカーリングのロコ・ソラーレの活躍に全道が熱くなりました。身近なスポーツ選手を応援したくなるのは、愛郷心(故郷を思う心=パトリオティズムpatriotism)の自然な発露です。
 そして、オリンピックなど大きな大会に出場したあと、選手たちの多くが言葉にするのは「応援してくれた多くの人々、支えてくれた地元の人々への感謝」です。スポーツを介して人々は、国や故郷への思いを共有し、深めることが出来るのだと思います。

 郷土館にぴったりのテーマではありませんか!(笑)


 

posted by 岩内町郷土館 at 2022年06月11日15:08 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと岩内古宇と樺太展〜外地よりの復員者に手厚く

 岩内町郷土館開館50周年記念「岩内古宇と樺太展」は11月23日(火)まで。いよいよあと一ヵ月弱となりました。多くの方のご来館を頂いております。とくに横綱大鵬の写真のところでは「おお! ナゼ岩内に?」と不思議がる声が聞こえてきます! 大鵬と岩内のご縁、答えを知りたい方はぜひ郷土館へ!

 さて、写真は初代郷土館館長、佐藤彌十郎氏の残した戦後資料「未復員者名簿(岩内町復員促進同盟会)」です。昭和20年8月15日の終戦当時、多くの日本兵が樺太に限らず北方四島や、満州、南洋などに出ており、多くは捕虜となったり、抑留され強制労働にと、敗戦国兵士の多くは大変辛く厳しい状況にありました。
 そのような中、岩内の人々はどうしていたか。

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 表紙左端に書き込みがあります。「21.8.1 未復員者総員 386名 / 22.7.31調 生還76 戦死72 / 現在 238」


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 一番上の項は、町内会の番号。次に出征軍人の「留守担当者(妻や両親など)」の名前があり、出征者本人の名前が書かれています。赤線で消されているのは、外地から無事帰還したか、もしくは戦死。消されていない名前は、この時点で安否を確認出来ない方々ということです。
 このように岩内では、戦地からの兵の帰還状況を詳細に記録していました。

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(左:「うれしい通報ー岩内町復員促進同盟会」 右:『昭和24年岩内要覧』より)

「うれしい通報 ソ連領内の引揚げ十月から開始か−マックアーサー司令部は九月二十六日午後次の声明を発表した。
 ソ連領内にある俘虜ならびに一般市民の引揚げに関しテレビヤンコ中将から『ソ連政府は同中将が米軍司令部との交渉を行うことを承認した』」

「目下計画されている交渉は、ソ連本国、樺太千島列島を含むソ連領にいる全日本人俘虜の引揚げ並びに一般日本人を日本へ返すことに及ぶものである」
 これを書いた岩内町復員促進同盟会の会長は、戦時中において「在郷軍人会」の会長であった佐藤彌十郎氏です。佐藤彌十郎氏はこの後公職追放となり、数年間失意の歳月を送ることになるのです。

 岩内町内では、同盟会や有志からの寄付金が集まり、帰還者へ一時金が渡され、各地区には引揚者住宅が急遽建設されました。引揚者は授産施設で仕事も出来るようになり、引揚者が商売を始める「マーケット」も作られ、引揚げ後の暮らしを安定させるための様々な取り組みがなされました。


 さて、戦中、岩内では外地へ出征している岩内兵へ届けるための、町の情報誌「郷土たより」を作成、発行していました。その中の記事から、興味深いものを発見! 

「完成目指して 岩中敷地の整地奉仕」
 昭和17年、岩内中学校(現岩内高校の前身)の設立が決定され、宮園の建設予定地の傾斜地を、平らにならす土木作業です。各町内会の人々の奉仕があり、当時の男子学生達も駆り出されました。


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 作業の様子を写した写真もありました! ここが、今の岩内高校ですよー!

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posted by 岩内町郷土館 at 2021年10月31日16:42 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと眠っている観光資源を掘り起こし利用しよう−2014年の坂井館長のコラムより

 眠っている観光資源を掘り起こし利用しよう
                    岩内町郷土館館長 坂井 弘治

築100年以上過ぎた「簗瀬家」の玄関の上に旧会津藩主松平容保(かたもり)公の日光東照宮宮司時代の扁額がかかっている。持ち主であった故簗瀬辰之助氏は「東照宮修築のため多額の寄付をしたのでそのお礼。」と話していた。また、簗瀬家には容保と息子の松平容大(かたはる)からの手紙も掛け軸にされて残っている。内容は、容保の手紙は礼状だということが分かったが、息子の容大のもそうではないかと思われていたのだが、なにしろ難しくて判読できないでいた。

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それが最近になってようやく内容が判明した。そこで判明した新事実は、容大の手紙では明治29年3月に岩内にやってきて、岩内在住の旧会津藩関係者一同から饗応を受けている、ということと、何(多分、生活資金)かを頼み込んで帰っていったことである。また、容保の手紙では、「保晃会(日光東照宮を守る会)会長である自分は職務多忙なので、副会長を派遣」とあり、代理に副会長が来訪したことが分かった。この副会長は、安生順四郎と言い保晃会の生みの親であり、栃木県県議会議長、栃木県で最初の牧畜経営者であった。と、ここまではなかなか立派な人物に見える。しかし、おっとどっこい、足尾鉱毒事件では金にまつわる数々の不正疑惑の絶えなかった人物として登場してくる。
なにはともあれ、当時の栃木県の重要人物と、旧斗南藩主が旧会津藩士を頼って岩内にやってきたことは非常に興味深い。確かに日本全国に散らばっていた彼らの中で岩内在住者は、簗瀬を筆頭にそれなりの経済力があったと思われ、それがこの二つ手紙と扁額からも伺われる。
さて、簗瀬家には宝物がまだある。勿論、和洋折衷の建造物簗瀬邸もそうだが、庭もなかなかなものである。

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岩内には明治時代からの庭園が三園あるが、その中で規模は小さいが一番手入れがなされている。残り二つは井筒さんが所有している「含翆園(近別荘)」と成川さんの庭園である。この二つは歩いて1分足らずのところある。広大な敷地に数多くの由緒ある碑や石塔が立ち並び、江戸時代の狛犬が鎮座し、桜の名所でもある岩内神社からでも5分もかからない。先ほどの簗瀬邸からでも10分。東京以北最大の大仏がある帰厚院からも10分。その目と鼻の先にある全修寺には岩内の最初の道議会議員本間玄契が送った安珍清姫の屏風がある。本館にも総刺繍の屏風があるがそれに勝るとも劣らない立派なものである。

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ここまで書けばお分かりであろう。歩いて10分程度のところに立派な観光資源が8つもあるのだ。これは歴史の浅い北海道では稀有なことだと思っていい。これを有効に利用しない手はない。また、少し町に下がれば木田金次郎美術館がある。左に行けば、日本最初の築港記念碑を横目で見ながらその最初の工事現場を通り、江戸時代からの曲がりくねった道路を歩いて国道に出れば郷土館だ。

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美術館を右に行き、茅沼炭鉱線の線路跡の道路をたどって歩き、途中のどこかの角を左折すると深層水センターが見えて来る。こちらの方は20分程度かかるが、最近健康志向ブームでウオーキングツアーがはやっているので、この「歩き」も売りになる。
「歩き」と言えば円山観音山までのコースも売りになる。私は旅行が好きなのであちこちに行くが、最近目につくようになったのは、ノルデックウオーキング専用ポールを持って観光地を巡っている一団がいることだ。円山まで歩いて4キロ1時間、専用ポールをついてのウオーキングにはもってこいだ。途中に円山ヒーリンファームとホーストラスト北海道がある。駝鳥や馬と遊んで円山頂上の見晴台で疲れを癒すのもどうだろうか。
町の背景にある小高い山地には温泉があり、いにしえの昔、大陸から渡って来た古代人が書いたと言われている文字(文様)が残っている円山、その裾にある荒井記念美術館。キャンプ場からみる絶景の岩内市街と岩内湾等など。みるべきものは山にもある。

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 他の町では車で20分も走らないと、次の観光スポットに行けないが、岩内は違う。市街地の場合は、あっという間に次の観光スポットに行ける。郊外も歩いても健康的にはちょうどよい距離に目的地はある。観光地としての岩内の最大の強みは、面積が狭い、ということだ。合併前の岩内は面積わずかに4平方キロメートル。半日時間をとれば、バスに乗り降りすることなく、江戸時代からの道路から始まって、がごめ昆布の深層水センターまでの間にある数々のスポットを巡って十分に行くことができるのだ。

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 郷土館ではこれを想定して数年前に「歴史散歩ガイドマップ」を作ってみた。今年も改良を加えて、観光シーズンに間に合うように発行する予定である。問題はそれ以後である。これをどう活用するかは観光協会を中心にした関係機関で「活性委員会」のようなものを立ち上げ、そこがやるべきだと思っている。観光で飯が食える街づくりを目指して動くのはいつだ。今でしょう!

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posted by 岩内町郷土館 at 2021年02月01日20:37 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと2005年の坂井館長の原稿より

本日、令和3年1月9日付の北海道新聞紙上で、坂井弘治郷土館館長の叙勲の記事を見つけました。

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 坂井館長は黒松内中学校の校長をつとめ、退職されました。その後郷土館館長に就かれて長く館の運営をされてきたのですが、やはり根っからの「先生」だった方でした。
 昨年、膨大な文書の入ったデータUSBを預かり、少しづつ解凍をしながら来年度への下ごしらえをしているのですが、中にはさまざまな媒体に寄稿した原稿もあります。なかなか面白く読み応えがあります。

2005年に坂井館長の書かれたものを紹介したいと思います。

郷土館館長奮戦記−身から出た錆−
坂井 弘治

 「なあに先生、館長室に座ってればいいんだから。」「非常勤ですから。」
「来館者数にはこだわらんで下さい。」ってなこといわれてその気になって〜
館長になったら大違い〜 
 と,誰かの歌ではないがなってみて驚いた。日々目の回るような忙しさで、
昨年の4月は、初出勤以来2週間以上休館日も含めて連日出勤した。その忙しさは今も続いている。
やらなければやらなくてもいいのだが、性分としてはそうはいかない。ついついあれやこれやとやり始めるのだから、忙しくなるのは当たり前で、女房などは身から出た錆と同情してくれない。多忙の原因の一つが今年から始めた年4回の企画展である。この10月の中旬からは、最後の企画展「岩内古地図展」が11月末まで開催される。岩内は歴史が古く裕福であったため、明治の初めから各種市街地図や港湾地図が出版され、それを展示するという企画だ。  
この地図の中に非常に面白いというか貴重なものとして「昭和13年第7師団町内宿泊図」という地図がある。これは、この年行われた秋季演習終了後実際に兵隊が泊った家とその人数が掲載されたものだ。(明治時代から羊蹄山麓での演習の後、それまで露営で過ごしてきた兵隊が民家で布団の中で休むのは岩内と決まっていた。第7師団の兵隊全員を収容できる町は、岩内しかなかったためである。彼等は、岩内で2日間ゆっくり休養した。当然ロマンスも生まれた。)地図上には赤鉛筆で、いろんな書き込みがあり、当時実際に使われたものであることが分かる。
また、この時、町外れで観兵式を行っているが、一番良い席は当然来賓席だが、次に良い席がなんと岩内高等女学校に与えられている。この事実をどう考えるか。あれこれと面白い想像が沸く。 
多忙の原因の二つ目は、来館者への説明である。私は、団体は勿論だが、個人であっても来館者に打診して、承諾を貰えば案内をすることにしている。そうすることで、私自身の勉強にもなるしお客さんの生の反応を知ることができ、それを館の経営に役立てることができるからだ。
このお客さんとのやり取りで異口同音に出てくる言葉に、「岩内の文化って凄いですね。」「こんなところ(こんな片田舎という意味)にこれほどの文化や歴史があったなんて・・・。」(これは本州のお客さんに多い。)「館内がきれいで良く整理されてますね。」「展示物が豊富ですね。」「うちの町に(関係者に)見せたい。」というお褒め言葉が圧倒的に多い。このような言葉に励まされてやる気がますます生まれる、というわけで、まさに教育は教え育てるでなく、おだて育てるだな、と改めて思っている。


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 岩内町郷土館は冬季休館中です。この連日の大雪で埋まりそうですが…いつも除雪に入って下さる業者の皆様、お世話になります!ありがとうございます!

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 写真は、昨年坂井館長が引退の時、記念にしていただきたくプレゼントした似顔絵です。かわいい(笑)。旭川在住のイラストレーター、小川けんいちさんが描いて下さったものです。
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posted by 岩内町郷土館 at 2021年01月09日15:32 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと旧島野村の方からの古写真から

郷土館第二回企画展「島野神社と島野の人びと」開催中です。始まって以来、島野ゆかりの方々がたくさんご来館されています。中には、ご自宅に保管していた古いアルバムをお持ち下さる方もいて、これがまた大変貴重な資料です。島野、岩内のみならず昭和30年代の札幌市の名所の写真もありました。
懐かしい写真をいくつかご紹介します。

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昭和30年代の札幌狸小路の写真です。

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昭和33年頃。札幌大通公園テレビ塔。修学旅行の記念写真です。右側の塔は何だろう……。

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昭和30年代。北海道庁赤レンガ。

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昭和30年代の、岩内第二中学校での授業風景。

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昭和37年(1962)岩内高校航空写真です。
この5年後の昭和42年、岩内高校は放火による火災で全焼、飛び火で岩内神社も全焼してしまいました。

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昭和36年頃、岩内高校グランド。
周囲には29年岩内大火のあとに建設された被災者住宅が立ち並んでいます。

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昭和38年、開通直後の雷電国道です。刀掛岩を望む、野趣あふれる(ガードレールもまだない)、岩内地方ならではの、地域住民悲願の国道開通でした。

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昭和30年頃の、島野海岸の子供たち。

写真提供、ありがとうございました!



posted by 岩内町郷土館 at 2020年09月22日12:07 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと岩内町郷土館は冬季休館中ですが……。

新しい年が始まりました。郷土館は冬季休館中です。令和2年4月7日(火)より開館いたします。早く春にならないかな!

 という訳で、今郷土館内はひっそりと静まり返っておりますが、新しい年度に備え下準備も着々と進めております。

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昨年の閉館間際、北海道博物館の学芸員さんによる、郷土館収蔵資料の調査が行われました。吉田初三郎の「岩内町鳥瞰図」は、郷土館に二種類あります。岩内大火前の町並みと大火後の町並みが描かれており、同じ町のものがこのように二枚もあるのは岩内だけではないでしょうか。
また、明治期の貴重な掛け軸等、博物館の専門家によりあらためてその由来を知ることが出来ました。
今年の第一回目の企画展でご紹介いたします! 乞うご期待!きらきら

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ニノさんも相変わらず。

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松浦武四郎雷電越えの図。北海道指定文化財「岩内東山出土円筒土器」

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鰊漁の船飾り「波うさぎ」。隠れキリシタン仏「子育て地蔵尊」

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「やまかげの 老い木の桜はなそちる いろをもかをも よにはのこさで」
元会津藩士、上田又作の詠歌。職員r選、館常設展示の中で、お気に入りベスト3のひとつですー。

posted by 岩内町郷土館 at 2020年01月16日18:28 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごとお魚の慰霊塔

 万代ドーム公園に立つ、、すらりと背の高い石碑は「魚族萬霊塔」。こう記されています。

「岩内三百年
 魚の献身なくして
 今日の岩内はなかったろう
 魚は有り難いかな
 即ち祀る」

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 漁業関連の方の建てられたものと思いますが、風雪に削られ年月、由来が定かではありません。文面は武田みさ子さんの著したエッセイ集『運上屋川』に載っていました。

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 岩内はやはり漁業であったのだ、加工業であったのだ、改めてそう思えるような郷土館企画展「にしん場展」が開催中です。

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 ちなみに、万代ドーム公園の旧岩内町役場の玄関ドーム。よく見るとやはり木造建築なのですね。塗装がはげてきているようです。お手入れしてほしいです……。

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こちらも早く復活してほしいです…岩内場所運上屋本陣跡の石碑。
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西防波堤の根っこに上ってみました! (ちょっとキケンですが)正面は湾をはさんで泊、ホリカップ。ここから右手(東側)が明治40年に完成した岩内港です。

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そして西側には、かつてにしん場の親方がタテアミや刺網をずらりとならべ、ニシンの千石場所が続いた野束、敷島内の浜。

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 日が暮れると、イカの船が漁火をならべているのが見えます。岩内、いい季節になりましたよ〜。

posted by 岩内町郷土館 at 2019年06月29日12:16 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと長田幹彦作詞「岩内音頭」にはまる

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 郷土館の宝庫、三階資料室でさがしものをしていると、全く別の方向に引き寄せられ思いがけない貴重な発見があり、はまっていくと更に抜け出せなくなる沼状態(TωT)。
「岩内音頭」は昭和9年(1934)、当時の流行作家長田幹彦作詞、中山晋平作曲で制作された岩内のご当地歌謡曲。昭和初期の映像の中では芸者さんたちが輪になって踊っている光景が残っています。

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 当時の岩内は鰊が消え、代わってスケソウダラ漁景気が盛んになっていた頃。この地域では小樽に次ぐ発展を遂げていました。中央の(札幌ではない)文化人や政財界の要人等が数多く岩内を訪れ、滞在していた記録があります。

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 その、作家長田幹彦の資料。岩内音頭の生原稿はもちろん、発禁いわくつきの歌謡曲「島の娘(長田幹彦作詞)」を歌った小唄勝太郎の生写真、渡辺はま子のブロマイド写真、湯の町エレジーの近江敏郎の写真、そしてご存知の方も多いと思いますが、竹久夢二美人画の原画ー幹彦小説の表紙絵ーと、出していくときりがなくなり、閉館時間ぎりぎりにまずは資料箱にフタをして、棚の奥にしまい込んだのでした。
 いずれまた必ずや機会を作り、ご紹介したい資料です。

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 一階展示室にある100年オルガンで、今日は専属演奏家の岩城先生が、文団協50周年記念式の演奏の練習に来られています。
 このオルガン演奏のレパートリーにもなっている「岩内音頭」。岩内が漁業盛んで華やかな時代に作られたものなのですが、手拍子合いの手を入れつつも、どことなく漂う哀愁。絶妙の名曲です。
 ♪ヤレサよいとよいと よいとよいやせー(r)


posted by 岩内町郷土館 at 2019年05月24日23:49 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと昭和20年代岩内の漫画家、斉藤正義(正代志)さん

 現在開催中の企画展「安政3年 茅沼炭山発見」の展示では、同年岩内地方を訪れた松浦武四郎の資料も同時に展示しておりますが、資料として当館所蔵の「安政元年の岩内〜雷電」の大きな絵図をお披露目しております。郷土館リニュアル後としては、おそらく初の展示であります。
 長さ約2.1メートルの長い長い絵図に、安政年間の蝦夷地の出来事を年譜で並べ、山々には標高も付し、山道や町には行き交う人々。この時代のイワナイ場所の様子が、生き生きと描かれています。

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(昭和24年作製 安政元年の岩内−雷電 斉藤正義 作)

 作者の斎藤正義さんは、若い頃に東京で、当時子供の間で大人気だった「のらくろ」作者の田河水泡に師事していましたが、戦争で海軍の方へ、中国大陸にわたりました。戦後は無事に帰還し、昭和21年に漫画仲間とともに岩内にて「新世漫画会 岩内集団」を創成。全道に呼びかけて「全道新世紀漫画会」となりました。
 その年、第1回全道新世紀漫画展が、岩内で開催。後志の美術家達に負けず劣らずの勢いでした。仲間には北海朗一、松岡研二、柿本八郎、大場ひろしなど。多くは札幌で活動していました。

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(昭和24年の『岩宇年鑑』に添付されている、岩宇7ヶ町村の手書きの絵地図)

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(岩内町広報に添えられたイラスト)

 札幌の大場ひろしさんは、わかさいもやチャルメラのイラストで有名なイラストレーターです。札幌市資料館には個人美術館の「おおばひろし記念室」もあります。当時大場さんは北海道新聞社にいて、この斎藤さんを入れるように働きかけていたようですが、惜しいことに斎藤さんはそのころ結核に冒されていたのです。
 昭和24年、岩内町開町50周年の時には、前述の絵図とともに、岩宇年鑑、記念スタンプのデザイン、島野小学校の校章デザイン、歴代町長の似顔絵等あらゆるジャンルで斎藤さんは活躍しましたが、昭和26年の春に30歳の若さで亡くなりました。
 もしもお元気でいたならば、大場ひろしさんや、かこさとしさんと並ぶような、偉大なアーティストであっただろうと思います。(r・参考『岩内美術史考察』)

(ちなみにおおばひろしさんは、広報いわないで数年にわたり4コマをのせています〜)
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posted by 岩内町郷土館 at 2018年10月11日15:06 | Comment(2) | TrackBack(0)

ひとりごと二葉座ゆかりの方より

 いよいよあと4日で終了の、企画展「岩内の演芸文化」。
 開業150年の今はなき大劇場二葉座を中心に紹介しましたが、その二葉座のご親族の女性より珍しい寄贈品があり、このたび初展示されています。日本髪を結うための髪結い道具一式です。

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 すじたて、びんなで、びんかきなど、いろいろな形の櫛があり、サンゴで作られた根がけにかんざし。
 こうがい、さしぐしにはきわめて微細な貝細工などが施されています。見えそうで、見えない、ほんの少しの煌めきを装飾にする、日本女性の粋な美意識が感じられる素晴らしい逸品です。

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 また岩内町に来た有名人の書き残した墨絵や、モモエちゃんのお宝ポスターも!
 まだ間に合いますよ〜。ぜひ見に来て下さいね〜!

posted by 岩内町郷土館 at 2018年06月27日16:42 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと昭和30年代の東山遺跡調査…以前の岩内考古学

 どーもお久しぶりです。
 ホリカップ出身の土面ほーりーさんです。
 今回はワタクシがどのへんで出てきたかというお話から。

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(ほーりーさんと呼んで♡)

 昭和十年八月三日付で発行された「岩宇郷土研究」という資料に、人面土器に関する記述があります。当時遺跡研究者として岩内地方を訪れていた、北海道帝国大学付属博物館主任 名取武光氏の報告です。
「堀株の崖下に住んでいた三浦といふ爺さん、今は亡くなったが此の人を発掘人夫に連れて歩いた。三浦の爺さんの家の後から子供が土面を発見し、或る人が受け取って、岩内の梅澤さんに譲った話もこの人から聞いた」
大正七年のことです。そして昭和四十七年三月、当時の梅澤家当主梅澤富士郎氏より、郷土館に寄贈となりました。

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(佐藤彌十郎氏による資料『岩宇の郷土研究』)

 昭和31年に東山遺跡より出土の縄文遺物は、北海道の有形指定文化財となっていますが、実はその調査より古い時代に一般の方々より寄贈された土器、石器類も、当館にはかなりの量で収蔵されています。専門的な検証はもちろんされていません。が、これらを大事に拾い上げ、復元し、意味あるものとして後世に伝えようとした人は、何も研究者や専門家に限らず、少なからずいたということなのでないでしょうか。

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(第一展示室の縄文コーナー。ヒスイ、メノウ珠にはちゃんと紐を通す穴がある)

 岩内、そして近隣岩宇には、すぐ足元に素晴らしい宝物が眠っているという気がします。(r)






posted by 岩内町郷土館 at 2017年06月14日12:22 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと昭和63年のいわないスキー場写真発見!

 昭和の終盤というと、少し前のような気がしますがよく考えれば、平成になっておよそ30年の歳月。30年前の岩内山のにぎわいを写した写真がたくさん見つかりました!


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(稼動していた頃の第二リフト)


 このところ、岩内町では岩内山のふもとにある温泉、スキー場などの再開発構想が話題となりました。新しい時代の機運に乗り、新しいまちのすがたを作っていく時なのかもしれません。そんな中、このタイミングで古い写真の山から30年前のスキー場のすがた。感慨深いものがあります。

 このころは人口20、811。景気も今とは大違いですが、海を望むすばらしい絶景のスキー場という点ではまったく変わりがありません。滑走を楽しんでいる人たち、子供達の笑顔、今と同じです。


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 まちの貴重な観光資源であり、古くから変わらぬ自然の恵みの宝庫でもあり、まちのどの場所に暮らしていてもその姿を眺めることのできる親しい山、木田金次郎画伯が何度もその姿を描き留めた岩内山。30年後にはいったいどのような姿となっているのでしょう。


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posted by 岩内町郷土館 at 2017年02月20日17:16 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと郷土館の大きな油彩画の由来

「安政三年四月二十七日 松浦武四郎アイヌの人たちスイド、サケノカロ、和人庄内塩越村常吉、松前富次郎の四名を伴い磯谷より雷電難所を越えて岩内の地に立つ」……岩内出身、山岸正巳画伯の油彩画700号、畳五枚分の大きさです。

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 郷土館は昭和45年に完成、翌46年5月に開館しました。この二年前から町の文化財保護委員会の方では郷土館にふさわしい絵を、という計画が進められており、最終的には当時委員長だった佐藤彌十郎さんの意向から町の歴史にゆかりのあるものを、ということになり具体化したのが、江戸時代末期に町を訪れた松浦武四郎をモデルとして描くということになり、これを受けて教育委員会が昭和48年夏、山岸画伯に依頼したものです。武四郎の紀行文『西蝦夷日誌』を題材に制作がすすめられ、約一年半、ようやく出来上がった油彩画は横4.5メートル、縦1.9メートルでキャンバスサイズでは約700号の大作です。

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(雷電刀掛岩、港に入る弁財船など細かい描写も見どころです)

 雷電地区から岩内に足を踏み入れた武四郎と案内人従者たちが描かれており、朝日が市街を照らし全体に明るい色調の作品です。公開を前にして文化財保護委員の見守る中で郷土館(旧)の階段上部の壁に飾られたが全員満足そうに見守りました。又制作にあたった画伯も「ようやく肩の荷が降りた気持ちです」と話したそうです。

 そこでこの絵についての裏話をご紹介しましょう。

 まず最初は、この作品を描かれた頃は、アイヌの人たちの人権問題が大変きびしく取り上げられていた時でした。従ってこの作品の制作に当たってはアイヌの人たちの衣服履物等の時代考証に研究を重ねられ、手に持つ弓は武人としての権威、案内人としての立場など十分配慮して制作されたそうです。
 つぎは武四郎一行の立ち止まっている背景には枯葉のたくさんついている灌木があります。
 この木はカシワの木とかドングリの木とも言っていますが、この枯葉はなかなか風に強く落ちそうで落ちません。いつ見ても枯葉がついております。そして落ちたと気付いた時にはすでに若葉がついているといった具合です。そこでアイヌの人たちが和人から借金をする時は、決まって返済の期限を「あの木の葉の落ちるまで」と言ったのだそうです。
 十個の品物を数えるのに「始まり終わり」をつけいつも十二個を騙し取られる和人に対し、せめてものお返しとしてアイヌの人たちが知恵を使ったものなのでしょう。

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(郷土館友の会会報bQ1より抜粋編集して掲載しました・r)

posted by 岩内町郷土館 at 2016年11月17日16:17 | Comment(0)

ひとりごとニシン漁の道具はどうやって使われていたのか?

 最近、郷土館の展示物に追加となったこの長い、不思議なかたちの道具。「ござむしろを作るもの」という説明を受けましたが、はてさてどうやって使うのか……。ひょっとして農業地帯の共和の方に聞いたら詳しいのかもしれません。


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 実はこのようなケースは多いのです。保管資料をもっとよく整理していけばいいのかもしれませんが、冬季休館がさだめの郷土館。時間もなければ人手も足りず……。


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 このニシン粕製造過程で重要な圧搾機も、つい最近「この心棒がなきゃ分かりづらいよ」といって、持ってきて下さった、しかも実際子供の頃やらされた、という方が!「この棒をぐるぐると廻してニシンをつぶすのさ」なるほど! 写真も発見。まるでニシンの海の中に沈んでいくような作業の母さんと、隣にこの道具「圧搾器」を使っている様子があります。


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 いずれにしても、残された時間は少ないかも。今だから伝わる話、伝わる技術、伝わる歴史がたくさんたくさんありそうです。(R)

posted by 岩内町郷土館 at 2016年11月10日16:17 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと 町の貴重文化財「簗瀬邸」存続のためには何が必要なのか

 Facebookでもアップしましたが、先月開催されたイベント「歴史散歩」では、当主である簗瀬様にご了解いただき、簗瀬邸の内部を特別に見学させていただきました。

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 すりガラスの模様が、とても美しい。こんな繊細な美しさのある建築、現代はあるのでしょうか。

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 明治39年の建物。もと会津藩家臣であった簗瀬真精は、維新後に北海道開拓使に出仕、明治12年岩内古宇郡の初代郡長となり、岩内町行政の基礎を作り上げた偉人です。この岩内で生涯を過ごされました。
 戊辰戦をくぐりぬけ、北海道の官職にあたった簗瀬氏。開拓使の辞令や松平容保からの書状など、その文書資料は多伎にわたり、町のみならず北海道、日本の歴史上でも重要な位置にあります。
 そして、この簗瀬邸もその貴重な資料の一つです。

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 岩内大火がもしなかったら……小樽や函館にも匹敵する歴史的建造物が多数あったであろう岩内。現在姿をとどめているのは数軒。これを今、大事にしようと思い立つ人がいなければ、モノだけではない何か大事な事が一つ、失われてしまうような気がしてなりません。岩内独自の心とか、精神とか。
 それは、仕方のないこととして考えなければならないものなのでしょうか。
(r)


posted by 岩内町郷土館 at 2016年10月05日12:06 | Comment(0)

ひとりごとルーツ(来し方)をさがしに

 お盆ですね〜。年に一度、ご先祖さまにご挨拶して、親兄弟親族が集まり…という日本ならではの夏。
 毎年この時期には、必ずお会いできるお客様があり嬉しい限りです。みなさまご実家のように、郷土館を訪れて下さいます。そして、いつもこの季節になると「我が家のご先祖を探しに」というお客様、大変多くなります。

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 明治の頃に発行された町の要覧、広告には屋号がついていて、この屋号が結構重要。ご先祖探しのカギともなります。

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 岩内は漁業の町ですが、実は大から小まで、商家のとても繁栄したところでもありました。小売、問屋、運送、職工、旅館に飲食、寄席劇場……。とにかくこんな小さなエリアに、ありとあらゆる商売があったのです。
 数十年間のブランクを経て、ご子孫が岩内の地を訪れ、郷土館で自分の身内と縁のある姓名を発見し「へええ」と驚きの声を上げるのを見ておりますと、これは本当に大切な出会いなのだなと感じることがあります。

 誰もが同じなのかはわかりませんが、人は成長してある年になると、自分の来し方「ルーツ」に出会いたくなるのではないか。と、感じます。どこかの町の、歴史につながっていると思う、知ることができるのは、実は生きていく上でとても重要なことなのではないかと思います。
(r)
 

posted by 岩内町郷土館 at 2016年08月14日16:52 | Comment(0)

ひとりごと佐藤彌十郎氏の「身辺雑記」より

現在、郷土館で開催中の企画展「岩内と戦争パート2 『郷土たより』に見る戦時下の岩内」。戦地の郷土兵士に宛てて送られた、この「たより」を元に展示をしています。当時編集をしていたのは佐藤彌十郎氏、戦後の昭和46年には、岩内町郷土館を創設し、初代館長でもあった岩内町にとっては忘れられない偉人です。
 下は、当館に所蔵される「郷土たより」最後の号最終ページ、「身辺雑記」とのタイトルで、佐藤氏の書いた日記風の文章があります。昭和20年3月発行。

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「二月九日 札幌に出て東工教授富塚博士の飛行機に関する懇談会に出る。容易ならぬ戦局を今更ながら痛感させられる。科学に劣弱な日本人、根本は日本の教育(学校、家庭、社会等)の革新に俟たねばならぬが、さてそれがいまの間に合ふか」

 富塚博士は東京帝国大学教授、工学博士、航空機エンジンの研究者で国内ではその第一人者です。札幌で行われた懇談会で、佐藤氏は専門家の話の中から、敵国の巨大な科学力を知り得たのではないでしょうか。
「科学に劣弱な日本人」と佐藤氏はこの時、明らかに察しています。「間に合うのか?」という問い。国全体が向かっている敗戦の運命。運命に巻き込まれるであろう銃後の町の人々。
 一つの文章から、一人の人間の中に起こった目まぐるしい、深い葛藤を想像させられます。今現在を生きる者が開戦、敗戦というものを現実にあった歴史として捉える、それは一つのきっかけともなります。

 それにしても、佐藤氏はこの文章を戦地の軍人に宛てて書いたのでしょうが、銃後の岩内町民向けなのかも、あるいはひょっとして戦後70年、80年後の現在を生きる、私たちに伝えたかったのかもしれません。残された者たちよ、見て、考えろと。(r)

posted by 岩内町郷土館 at 2016年08月04日17:03 | Comment(0)

ひとりごとただ一人の方のふるさとのためにも

 郷土館のカウンターに設置してある、ご感想ノート。先日、とてもありがたい一言が。

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「大変昔のことを思い出しうれしいの一言で、此の様な資料館は末長く保存し傳(つた)えて頂き度いと存じます」

 観光、集客施設として魅力のある施設であるのも重要かもしれませんが、もっとも大切なのは「郷土」を保存し伝えること。昔の岩内を知る人が「懐かしい」と喜んでくださるのが、本当に嬉しいです。
 課題は沢山ありますが、今後ともよろしくお願いいたします!

 さてさて。
 これを書いて下さった方は、久々の岩内をどうご覧になったでしょうか。

 我が子らの孫の孫の世代、町はどうなっているでしょう?
 郷土館に眠る古い写真を見て
「えー! 岩内って、平成時代はこんなに大きな町だったの?」
 もしくは「えー! 岩内って、こんなにサビレてたの〜?」
 ………後者のセリフが、あったらいいけどなあ……。
「変わらないじゃん。」だったりして。
(r)


posted by 岩内町郷土館 at 2016年06月21日16:36 | Comment(4)

ひとりごと広報いわない第一号におおば比呂司さんの4コマが

 昭和31年4月、岩内町の「広報いわない」第一号が発行され、町民に町の情報が広く伝わるようになりました。現在28年5月号で、通算721号となっています。
 その第1号で、北海道で著名な漫画家おおば比呂司さんが4コマ漫画を掲載しています。

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 先日、札幌市の資料館内にある「おおば比呂司記念室」を訪れた時職員の方にお知らせして、紙面を見ていただこうとデータをお送りしました。おおば比呂司さんは企業の商品や観光関連などでカットをたくさん描いている方です。昭和世代は、誰もが一度は見たことがあるはず。

 昭和31年当時、おおばさんは北海道新聞社で図案課に所属。その後退職して東京へ出ています。それまでの期間「広報いわない」に4コマを掲載。どんな縁があったのでしょう? 少し調べてみると岩内でマンガ、イラストを描いていた斎藤正義さんという人の名が出てきました。

 この方は、若い頃に東京で田河水泡(「のらくろ」作者)に師事。戦後まもなくの昭和21年「新世紀漫画会岩内集団」を結成、それが全道に広がりました。おおばさんもその一員であったということです。
 斎藤正義さんは将来を嘱望されていましたが、結核のため昭和26年に亡くなります。30歳という若さでした。

 町の広報は、町の情勢や29年の岩内大火などで、長らく発行を休んでいましたが、昭和31年「広報いわない」として新たに生まれ変わることとなりました。文字ばかりのお堅い紙面ではなく、おおばさんのマンガは大火からの復興途上の町の人たちも、とても楽しんだのではないかと思います。

 今回、データとしてまとめましたので、ご覧になりたい方は郷土館へお気軽にどうぞ!

posted by 岩内町郷土館 at 2016年05月30日12:35 | Comment(0)