岩内町郷土館ブログ

岩内町郷土館でのイベントやお知らせ、
岩内町に関する情報や岩内町の様子などを発信しています。

ひとりごと昭和30年代の東山遺跡調査…以前の岩内考古学

 どーもお久しぶりです。
 ホリカップ出身の土面ほーりーさんです。
 今回はワタクシがどのへんで出てきたかというお話から。

IMG_4068.JPG
(ほーりーさんと呼んで♡)

 昭和十年八月三日付で発行された「岩宇郷土研究」という資料に、人面土器に関する記述があります。当時遺跡研究者として岩内地方を訪れていた、北海道帝国大学付属博物館主任 名取武光氏の報告です。
「堀株の崖下に住んでいた三浦といふ爺さん、今は亡くなったが此の人を発掘人夫に連れて歩いた。三浦の爺さんの家の後から子供が土面を発見し、或る人が受け取って、岩内の梅澤さんに譲った話もこの人から聞いた」
大正七年のことです。そして昭和四十七年三月、当時の梅澤家当主梅澤富士郎氏より、郷土館に寄贈となりました。

IMG_4075.JPGIMG_4076.JPG
(佐藤彌十郎氏による資料『岩宇の郷土研究』)

 昭和31年に東山遺跡より出土の縄文遺物は、北海道の有形指定文化財となっていますが、実はその調査より古い時代に一般の方々より寄贈された土器、石器類も、当館にはかなりの量で収蔵されています。専門的な検証はもちろんされていません。が、これらを大事に拾い上げ、復元し、意味あるものとして後世に伝えようとした人は、何も研究者や専門家に限らず、少なからずいたということなのでないでしょうか。

IMG_4073.JPGIMG_4071.JPG

IMG_4070.JPGIMG_4074.JPG
(第一展示室の縄文コーナー。ヒスイ、メノウ珠にはちゃんと紐を通す穴がある)

 岩内、そして近隣岩宇には、すぐ足元に素晴らしい宝物が眠っているという気がします。(r)






posted by 岩内町郷土館 at 2017年06月14日12:22 | Comment(0) | TrackBack(0)

お知らせ5月30日より「縄文時代の岩内」

平成29年の第二回企画展は、縄文時代を展開します!

P8290007.JPG

 岩内東山遺跡は、昭和31年に初めて本格的な発掘調査が行われ、昭和43年には北海道の指定文化財となっています。
 今回は北海道埋蔵文化財センターさんのご協力も得ながら、岩内というまちの地下に眠る、大規模な古代の歴史に光を当てる企画展です。

P6100029.JPG

「大規模」なんです。専門家のお話によると、青森の三内丸山遺跡にも匹敵する集落があったかもしれないとのこと。平成13年〜15年に発掘調査が行われた際、出土した遺物は十万点を超え、住居跡などの遺構が30基以上発掘されました。現在のところ新しい調査が行われていないので、その全容はわかりません。が、平成22〜28年調査により、文化財指定の区画が旧調査で決定されていたものとずれがあるということが分かり、今年3月、新たな区画に指定変更が行われました。「文化財指定のお引越」との新聞報道がありました(道新後志版4/7)。

DSC02057.JPG

 新聞で「えええ岩内にそんなのがあるの?」と、初めて知った方もおられるかもしれません。そのくらい岩内の遺跡は東山の高台のかたすみに今ひっそりと眠っています。
 岩内の考古学は、実は明治大正の頃から始まっていました。まだ舗装道路など無かったころは、そのへん至るところに、ごろごろと土器片が落ちていたそうで。次第に学術的に収集、研究しようという気運が高まっていました。
 昭和28年には、北大の名だたる教授、研究者も岩内入りしています。高倉新一郎、更科源蔵、知里真志保など、そして今では北海道考古学の礎となっている大場利夫教授も。
 しかし! 一気に加速するはずの岩内遺跡発掘調査は大きく頓挫してしまいます。昭和29年の岩内大火です。
それまでの資料はほとんど消失、散逸。そして人の心も遺跡どころではありません。

 東山には罹災者のためのブロック団地が建設されることになりましたが、その基礎工事でもどんどん土器石器が出てきます。貴重な遺跡の存続を案じ、なんとか保存をと動き出したのは町の民間の研究者達でした……。

 企画展では、当時の町の人たちがどんな思いでこの遺跡を守り続けるに至ったのか、歴史とともに感じ取って頂けると大変嬉しいです。 (r)




posted by 岩内町郷土館 at 2017年05月28日02:53 | Comment(1)

できごと5月、郷土館で見つけたもの。こんなところにー!

 寒い日が続きますね〜と思っていたら今日、ホップのツルがにょきにょき伸びているのを発見。年々大きくなっているように感じます。

IMG_3900.JPG

 発見といえば、今回の企画展は「郷土館お宝・珍品展」。ポスターのうたいには「おもしろ発見!郷土館」ということで、ちょっと展示物の中より面白い発見をば。

IMG_3902.JPG

 企画展示の中に大きな木皿、ご覧になりましたか。継ぎ目なく一本の大きな木株より削られたものです。むかしの人の手作業は本当に素晴らしいですね。
 その表面に「やまき」という屋号が刻まれているのを発見。この屋号は明治期岩内のにしん漁大親方、濱喜三郎のものです。人呼んで「やまきの殿様」大変豪華な暮らしをしていたがにしん不漁とともにあっさり没落という天国と地獄の典型を、屋号とともに町史に刻んでおります。

IMG_3904.JPG

 第二展示室のガラスケース。床掃除途中ふと見れば、こんなところに「(屋号いりかせ)工藤守 寄贈」とかいてあります。
 いりかせはかつてあった「料亭うきよ」。現在のうきよ通りの名はここからはじまります。料亭、ホテル業、岩内の繁華街では古くから歴史のあった屋号です。おそらくは郷土館が昭和46年に開館の時、寄贈されたものです。
 中身もさることながら、ガラスケースも年代もの(笑)。
 そして、この郷土館には開館から現在にいたるまで、たくさんの一般町民の方の思い入れとご協力があったのだと感じます。


IMG_3905.JPG

 本日また新たに寄贈品がありました。
 島野の漁師の大親方、小塚漁場で使われていた立派な御膳です。

IMG_3901.JPG

 ありがとうございました。


posted by 岩内町郷土館 at 2017年05月17日16:49 | Comment(1)

できごと高橋信夫飛行士の胸像の由来が明らかに!

 2階展示室にある「高橋信夫飛行士の胸像」。長らくその由来を知る人はいなかったのですが、意外にもその由来が千葉県千葉市の千葉寺(せんようじ)にあるということが新たにわかりました!


IMG_3767.JPG

(開催中の企画展で詳しく紹介しています)


 この胸像の台座が、千葉寺の境内に残されているというのです。

 高橋信夫飛行士は、大正時代、日本で初めて創られた千葉県の稲毛海岸「白戸飛行場」の飛行士でした。我が国の航空史の先駆者、白戸栄之助の愛弟子でもありました。


1493104026948.jpg1493104027132.jpg

(千葉寺境内に残る胸像の台座 インターネット航空雑誌ヒコーキ雲掲載)


 大正12年、訓練中の事故で高橋飛行士は亡くなってしまいます。師の白戸栄之助はその死をたいへんいたみ、同じ年に亡くなった、やはり愛弟子であった嶋田武男飛行士との、二人の胸像を制作し、千葉寺に追悼の碑を建てました。

 ところが、戦時中の金属供出でその銅像は失われてしまいます。郷土館に保存されているのはその像の「石膏型」なのです。作者は彫刻家田島亀彦、大正13年制作です。(千葉市教育委員会発行「千葉いまむかし」より)


 さかのぼる大正8年、高橋飛行士はこの岩内町に来て飛行機を飛ばしました。どのような経緯でこの航空披露が開催されたのかは不明ですが、集まった大観衆は初めて見る飛行機に大興奮であったと記録にあります。

 高橋信夫は、明治期に岩内町で私学校を創設するなど、岩内の教育行政に大きな偉業を残された高橋常四郎の孫にあたります。父萬吾は、神恵内方面で漁師の親方であったそうです。信夫自身は岩内出身ではなく準岩内出身といったところ。しかしながらお祖父様のご縁で岩内の空を凱旋飛行されました。


ぱとりあal2005.jpgぱとりあal2006.jpg


ぱとりあal2008.jpg

(大正8年6月15日。岩内上空飛行)


IMG_1930.JPG

(町内大和公園にある、高橋常四郎の石碑)


 この時代の地方都市で飛行機の発着飛行は実に珍しく、昭和の偉大な郷土史家佐藤弥十郎氏の言を借りていえば

「岩内というところはこわいところだ」(笑)

 今の町民センター、旧中央小グランドの高台を発着、老古美、前田の上空を飛んだということです。 


1493104026684.jpg1493104026375.jpg

(稲毛民間航空記念館には、高橋信夫飛行士の奉納したプロペラなど、ゆかりの資料があるそうです)


 なお、このたび千葉市で発行された「千葉いまむかし」という冊子にて、白戸飛行場と高橋信夫飛行士の資料が詳しく紹介され、郷土館にある胸像についても紹介されました。


 さらに千葉寺の台座の写真等は「インターネット航空雑誌ヒコーキ雲」さんにもご協力をいただきました。


 ありがとうございます!

posted by 岩内町郷土館 at 2017年04月27日23:37 | Comment(0) | TrackBack(0)

できごと平成29年度 郷土館オープンです。

 いよいよ平成29年4月7日金曜日、午前9時より郷土館が開館します。お近くの方も遠方よりの方も、たくさんの皆さんのお越しをお待ちしております。


IMG_3698.JPG


「とはいっても、一度見たし展示も変わらないんじゃ?」……と、思っている方、もちろん、おおまかな岩内の歴史は不動です。が、過去の歴史を掘り下げて知ろうとするとき、思いもよらぬところから意外な新発見もあり、これこそが郷土館の楽しさ、魅力でもあるのです。

 岩内。長い長い歴史です。埋もれた資料がどっさりあります。何度来ても、面白いものがきっとあります。


IMG_3697.JPG


 是非、あなたのお気に入りの「歴史物語」を見つけに来て下さい!

posted by 岩内町郷土館 at 2017年04月07日00:07 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと昭和63年のいわないスキー場写真発見!

 昭和の終盤というと、少し前のような気がしますがよく考えれば、平成になっておよそ30年の歳月。30年前の岩内山のにぎわいを写した写真がたくさん見つかりました!


IMG_0167.JPGIMG_0186.JPG


IMG_0187.JPGIMG_0188.JPG

(稼動していた頃の第二リフト)


 このところ、岩内町では岩内山のふもとにある温泉、スキー場などの再開発構想が話題となりました。新しい時代の機運に乗り、新しいまちのすがたを作っていく時なのかもしれません。そんな中、このタイミングで古い写真の山から30年前のスキー場のすがた。感慨深いものがあります。

 このころは人口20、811。景気も今とは大違いですが、海を望むすばらしい絶景のスキー場という点ではまったく変わりがありません。滑走を楽しんでいる人たち、子供達の笑顔、今と同じです。


IMG_0189.JPG


IMG_0080.JPG




 まちの貴重な観光資源であり、古くから変わらぬ自然の恵みの宝庫でもあり、まちのどの場所に暮らしていてもその姿を眺めることのできる親しい山、木田金次郎画伯が何度もその姿を描き留めた岩内山。30年後にはいったいどのような姿となっているのでしょう。


IMG_0302.JPG




posted by 岩内町郷土館 at 2017年02月20日17:16 | Comment(0) | TrackBack(0)

お知らせ郷土館は、冬季休館に入りました。

IMG_1612.JPG

 11月27日をもって、本年度の郷土館は終了、冬季休館となります。今年もたくさんのご来館、ありがとうございました。平成29年度は4月より開館の予定です。なお、当ホームページ、ブログ、フェイスブックでは年中無休で情報発信していきますので、今後ともご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

posted by 岩内町郷土館 at 2016年11月28日11:36 | Comment(0)

ひとりごと郷土館の大きな油彩画の由来

「安政三年四月二十七日 松浦武四郎アイヌの人たちスイド、サケノカロ、和人庄内塩越村常吉、松前富次郎の四名を伴い磯谷より雷電難所を越えて岩内の地に立つ」……岩内出身、山岸正巳画伯の油彩画700号、畳五枚分の大きさです。

IMG_3326.JPG

 郷土館は昭和45年に完成、翌46年5月に開館しました。この二年前から町の文化財保護委員会の方では郷土館にふさわしい絵を、という計画が進められており、最終的には当時委員長だった佐藤彌十郎さんの意向から町の歴史にゆかりのあるものを、ということになり具体化したのが、江戸時代末期に町を訪れた松浦武四郎をモデルとして描くということになり、これを受けて教育委員会が昭和48年夏、山岸画伯に依頼したものです。武四郎の紀行文『西蝦夷日誌』を題材に制作がすすめられ、約一年半、ようやく出来上がった油彩画は横4.5メートル、縦1.9メートルでキャンバスサイズでは約700号の大作です。

IMG_3322.JPGIMG_3323.JPGIMG_3321.JPG
(雷電刀掛岩、港に入る弁財船など細かい描写も見どころです)

 雷電地区から岩内に足を踏み入れた武四郎と案内人従者たちが描かれており、朝日が市街を照らし全体に明るい色調の作品です。公開を前にして文化財保護委員の見守る中で郷土館(旧)の階段上部の壁に飾られたが全員満足そうに見守りました。又制作にあたった画伯も「ようやく肩の荷が降りた気持ちです」と話したそうです。

 そこでこの絵についての裏話をご紹介しましょう。

 まず最初は、この作品を描かれた頃は、アイヌの人たちの人権問題が大変きびしく取り上げられていた時でした。従ってこの作品の制作に当たってはアイヌの人たちの衣服履物等の時代考証に研究を重ねられ、手に持つ弓は武人としての権威、案内人としての立場など十分配慮して制作されたそうです。
 つぎは武四郎一行の立ち止まっている背景には枯葉のたくさんついている灌木があります。
 この木はカシワの木とかドングリの木とも言っていますが、この枯葉はなかなか風に強く落ちそうで落ちません。いつ見ても枯葉がついております。そして落ちたと気付いた時にはすでに若葉がついているといった具合です。そこでアイヌの人たちが和人から借金をする時は、決まって返済の期限を「あの木の葉の落ちるまで」と言ったのだそうです。
 十個の品物を数えるのに「始まり終わり」をつけいつも十二個を騙し取られる和人に対し、せめてものお返しとしてアイヌの人たちが知恵を使ったものなのでしょう。

IMG_3320.JPG

(郷土館友の会会報bQ1より抜粋編集して掲載しました・r)

posted by 岩内町郷土館 at 2016年11月17日16:17 | Comment(0)

ひとりごとニシン漁の道具はどうやって使われていたのか?

 最近、郷土館の展示物に追加となったこの長い、不思議なかたちの道具。「ござむしろを作るもの」という説明を受けましたが、はてさてどうやって使うのか……。ひょっとして農業地帯の共和の方に聞いたら詳しいのかもしれません。


IMG_3260.JPG


 実はこのようなケースは多いのです。保管資料をもっとよく整理していけばいいのかもしれませんが、冬季休館がさだめの郷土館。時間もなければ人手も足りず……。


IMG_3263.JPG


 このニシン粕製造過程で重要な圧搾機も、つい最近「この心棒がなきゃ分かりづらいよ」といって、持ってきて下さった、しかも実際子供の頃やらされた、という方が!「この棒をぐるぐると廻してニシンをつぶすのさ」なるほど! 写真も発見。まるでニシンの海の中に沈んでいくような作業の母さんと、隣にこの道具「圧搾器」を使っている様子があります。


mapp003.jpg


 いずれにしても、残された時間は少ないかも。今だから伝わる話、伝わる技術、伝わる歴史がたくさんたくさんありそうです。(R)

posted by 岩内町郷土館 at 2016年11月10日16:17 | Comment(0) | TrackBack(0)

ひとりごと 町の貴重文化財「簗瀬邸」存続のためには何が必要なのか

 Facebookでもアップしましたが、先月開催されたイベント「歴史散歩」では、当主である簗瀬様にご了解いただき、簗瀬邸の内部を特別に見学させていただきました。

IMG_2988.JPG

 すりガラスの模様が、とても美しい。こんな繊細な美しさのある建築、現代はあるのでしょうか。

IMG_2979.JPGIMG_3001.JPG

 明治39年の建物。もと会津藩家臣であった簗瀬真精は、維新後に北海道開拓使に出仕、明治12年岩内古宇郡の初代郡長となり、岩内町行政の基礎を作り上げた偉人です。この岩内で生涯を過ごされました。
 戊辰戦をくぐりぬけ、北海道の官職にあたった簗瀬氏。開拓使の辞令や松平容保からの書状など、その文書資料は多伎にわたり、町のみならず北海道、日本の歴史上でも重要な位置にあります。
 そして、この簗瀬邸もその貴重な資料の一つです。

IMG_2990.JPGIMG_3003.JPG

IMG_2985.JPG

IMG_3017.JPG

 岩内大火がもしなかったら……小樽や函館にも匹敵する歴史的建造物が多数あったであろう岩内。現在姿をとどめているのは数軒。これを今、大事にしようと思い立つ人がいなければ、モノだけではない何か大事な事が一つ、失われてしまうような気がしてなりません。岩内独自の心とか、精神とか。
 それは、仕方のないこととして考えなければならないものなのでしょうか。
(r)


posted by 岩内町郷土館 at 2016年10月05日12:06 | Comment(0)