岩内町郷土館ブログ
岩内町郷土館でのイベントやお知らせ、
岩内町に関する情報や岩内町の様子などを発信しています。
余滴小ばなし | 神社坂の由来
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「岩内の坂の話 桜井甚吉」
「私が明治44年、男子小学校(いまの町役場の場所にあった東小)に入学した時『ぜんでらの坂(全修寺の坂)』から『がべ坂』まで、これ以外に高台に登る道は『佐久間の坂(現森嶋商店と山本文具店の間)』しか無かった。
『佐久間の坂』の由来は知らない。
この『佐久間の坂』は、かなりの急坂で、下町の男の子は大半ここを登降して通学した―」
「―冬になると格好のソリ遊び場で、子供達は一気に滑り下りる。通行の児童や町民に衝突する危険があるので、学校は禁止していたが、悪童共はこの規則を無視して滑降する。
『去れよ、去れよ、去らねば坂からモッコ(蒙古)来るぞ』というのが、お決まりの注意文句であった。モッコが恐ろしいものという観念は、史実を知らない子供心にも広く行き渡っていたのだ。
坂は明治期、『ぜんでらの坂』、『がべ坂』、『佐久間の坂』の三か所しかなかったが、大正二年に(1913)北川次郎吉氏が、加藤家具店とグリーンスポーツ(現・蓮華寺駐車場)の間の私有地に、自費で道路を造って、町に寄付した」
「大正天皇の御即位記念として、彼自身『記念道路』と命名。長く親しまれた名前だが、このごろは『神社通り』と呼ばれているようで、この起源も寄付者名も忘れ去られている。
土木技術や運搬手段の乏しい時代に、自ら人夫や馬車を指揮して情熱を燃やした彼の姿を、子供心に見ている私は、この坂の開発が多大の便宜を町民に与えたることを思うと、寄付者には気の毒だなと感ぜずにはいられない。」(名店街協同組合発行『MyTown名店街瓦版1994年』より)
この「MyTown名店街瓦版」は、およそ30年前発行の貴重な資料です。これは、今回の企画展「岩内あきんど衆と商店街」準備の途中、ホリエ薬店さんよりお借りしたファイルの中にあったもので、名店街だよりのおそらく前身のものと思います。
平成時代初期、日本ではバブルがすっかり過ぎ去っても景気はそのうち持ち直すだろうと、楽観的な空気が漂う時代でした。しかし一方で「就職氷河期」という言葉が生まれているのもこの頃です。
岩内の商いもまた、コンビニ、ディスカウント酒屋などの進出で、ひとつの転換期を迎える時でした。各商店街では、勉強会や情報交換、そして積極的なイベント開催など、各店が連携し、まちのにぎわいをつなぐためのさまざまなアクションがこの時代に生まれていることが、これら商店街の資料の中に見られます。
そのなかでも、町の歴史に関するコラムを書き残している、当時の桜居甚吉さんの文章は大変貴重なものだと思います! 神社坂に、こんな隠れた由来があったとは! 北川次郎吉は、明治初期の越前からの移住者で、帰厚院のもっとも早い時代の檀家世話役だった方ですね。自費で坂道を開く、大きな親方であったのでしょう。あの無理矢理にも見える強烈な急坂。しかし、毎年の神社祭神輿渡御では、一番華やぐ、誰もが一番見どころと感じている急坂です。
「神社坂」をいまさら「記念道路」に戻すことなどはできませんが、その由来がここに、皆さんの記憶にちょっとでも残ってくれたらうれしいですね…。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年10月05日10:29 | Comment(0) | TrackBack(0)
余滴小ばなし | 明治時代の岩内中心街 御崎・大和
町内清住にある郷土館から、岩内港方面へ向かうとき必ず通るのが「御崎(みさき)・大和(やまと)」という地区なのですが、この一帯は戦中の昭和18年(1943)に字名改正が施行されるまでは、「稲穂崎町」「堀江町」「三島町」「橘町」「吹上町」と分かれていました。
そして、この一帯が岩内町で一番初めに人々が移住し、ニシン漁をいとなみ、また商いをはじめた中心街のあったところでもありました。今の閑静な住宅地の様子からは、想像もできません。
ということで、想像してみましょう! 明治40年代の古写真を一枚ご紹介します。
お江戸のようなにぎやかさですね〜!
遠くにかすかに、岩内山が写っています。右へ行けば、「明治の中心街青橋」そして野束川島野方面。直進すると、左手には「岩内座」という劇場があり大きなのぼり旗が見られます。写っていませんが、明治32年創業の吉田蒲鉾店もあるはず。理髪店の赤青くるくるや、看板をかかげた商店が立ち並び、とてもにぎやかな様子が伝わります。
同じ場所の現在がこちら。![]()
今の道道270号を西へ、大和と御崎の境い目に、鋭角に切り取られたような不思議な交差点がありますが、この交差点こそが明治初期から続いているところで、岩内大火の後もしっかり生きている昔ながらの道路なのです。右へ行けば「明治の中心街青橋」の石碑が見られ、大人気のスープカレー店「シン・カレー」さん。この付近は、昭和29年の大火の前は、大きな劇場「遊楽館」があったところです。![]()
明治29年(1896)の岩内市街図です。↓は、写真と同じ交差点。
約130年前、現在の中央通りから東側はまだまだ開拓途中。砂浜に船着き場がちょっこしある程度で、まだ港も出来ていない時代ですが、同26年にはすでに1,379世帯、8,022人の人口がありました。
野束川から遊楽館通り、青橋、○甲さんあたりまでは、昔は「俗称裏町」といわれていたそうで、盛り場、貸座敷、料理屋が並び、三味の音が夜な夜な響く「花柳の巷」であったそうな。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年09月15日13:53 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 北海道空襲における岩内
郷土館では、戦後80周年を記念する企画展「岩内と沖縄戦」を開催中です。本日、7月15日は、ちょうど80年前、14日から二日間にわたる北海道空襲、岩内空襲の日に当たります。
先日、岩内の空襲について御崎の会津泰蔵さんから貴重なお話をうかがいました。
「岩内山の方から、グラマンが飛んできたのを見た。そこら中に物凄いバリバリッという音がして、赤い火の玉みたいのがいくつも飛んでいた(機銃掃射の曳光弾か)。まだ小学生で、怖いもの見たさで頭を出していたら、向かいの矢田のオヤジに怒鳴りつけられた。あのグラマンの光景を見た時は…子供心に『日本は負けるな』と思った。そのあと、家の脇の通りを血まみれの負傷者や死人が次々と運ばれてきて、協会病院へ向かっていった(元の協会病院は今の福祉センターのところにあった)。」
雷電沖を小樽へ向かっていった輸送船「八禮丸」を標的として、アメリカのグラマンが攻撃をしてきたのは、昭和20年7月15日の午前6時ころと記録にあります。八禮丸の乗組員たちは海上で果敢に応戦、岩内港へ退避して水兵6人と、機関士1名が岩内協会病院に運び込まれ、なくなっています。![]()
(昭和20年7月20日付 北海道新聞)
北海道新聞
昭和二十年七月二十日付
「鮮血に彩る海の邀撃(ようげき)戦」
「敵機は海上輸送を狙って舞い下って来た。だが我が“海のつわもの”たちは敢然これを邀え(むかえ)撃ち眇々(びょうびょう)たる機帆船といえども屈しなかったばかりか、敵をして周章遁走させる大戦果をあげ、伝統に輝くわが“海軍魂”をさらに光輝あるものとした、数多いこれら邀撃戦果のうちから、ここに三篇を贈って、わが“海のつわもの”たちの血をもって彩る敢闘の跡を偲ぶ」
「“射手交代”また交代
三機撃墜 一機撃破 見よ輸送船の血闘」
「倶知安地区に侵入した敵編隊機は○○(島野)村沖を航行中の輸送船に襲い来った『総員戦闘配置につけ』マ(松下)隊長の命一下非戦闘員を船底に退避させ素早く配置についた、時に十五日六時十五分、瞬間九機編隊の敵機は百五十米(メートル)附近に現われて来た、先頭の一機が船尾から僅か五十米の超低空で凄まじい音を立てて通過したかと思うと、第二機は機銃掃射の雨を降らせ、第三機、第四機と相次いで迫ってくる。
『撃ち方始めツ』
隊長の命に機関砲は火を吐いた、見る間に一機は黒煙を吐いて海中に墜ちてゆく、『あツ』隊長は左股下に貫通銃創をうけたが流血を抑えもせず指揮をとっていた、敵機は傍若無人に二機、三機と超低空飛行を続け、機銃掃射、爆弾、機関砲弾でやってくる。
“どんなことがあっても、撃ち墜としてやるぞ”
みんなの顔は緊張だけ必死となって応戦した、隊長は再び貫通銃創をうけた、シ(塩田)一等兵曹が代わって指揮命令を発した、船尾から横から前から敵機は旋回しながら連続的に弾雨を降らしてくる、射手交代―また交代、相次いで斃れていった、機関銃もまた必死の応戦である。
“必ず撃て、最後の一兵までやるぞ”
皆の気持は、それ以外何もなかった、甲板上は血が流れている。
“憎い奴、今に見ろ”
塩田一曹は歯を食いしばりながら指揮した、命中弾だ、一機は遠くの海面に消えたが依然執拗な敵機は去ろうとはしない、マ(牧)水兵長は毛布をかけ、必死となって爆薬を守っている。
これに敵弾が命中すれば、木っ端微塵になるのだ、砲弾をいだいたまま『口惜しい』一語を残して戦死する戦友、右腕をやられながら左手で操射する射手、銃把を握ったまま散ってゆく戦友、旋回機銃を握り敵機を狙みつけながら仆れる友、敵の波状反復攻撃は滅茶苦茶にやってくる、残る〇○名は機関銃に集結した、猛烈な彼我の交戦はつづいた、やがて船体から二百米前方で編隊を整えて敵機は脱去した、交戦十七分、時計は六時三十二分であった、撃墜は確か三機、さらに一機は右翼から火を吐いて遁走したが、おそらく途中墜落をしたであろう、血の海の船内、大急ぎで応急処置を講じ故障を補修して〇○(岩内)港に着いた、無念の涙をのんで死んでいった戦友、重傷で身動き出来ない戦友、塩田一曹も左足に貫通銃創をうけ歩行ができなかった、病院に運ばれると岩内町警防團女子救護班員が率先輸血を志願してくれた、岩内町や警察署、警防團、町内会なども親身の世話をしてくれた。
敵機撃墜は嬉しかった、それにもましてその温かい介抱は嬉しかった『これでこそ俺たちは死ねるんだ』と横たわった塩田一曹の目から 涙が流れた、入院後六名は死亡したが“もっと落したかった、町の方々のご親切は忘れません”と苦しい息の中にも闘魂沸り感謝に満ちていた、いま岩内協会病院の一室で戦況詳報を書く塩田一曹は十七分間の来襲敵機はのべ四十二機と記した。」![]()
(昭和20年7月15日付 北海道新聞 写真は室蘭、函館の空襲の様子)
記事では〇○港と名前が伏せられていますが、状況から岩内であることが、佐藤彌十郎氏の資料から読み取れます。輸送船がグラマンに応戦、三機を撃墜した、と新聞には勇ましい記事が書かれていますが「飛行機落したなんて聞いてない、作り話だろう」と会津さん。
では、岩内町内の被害はなかったのか。詳しい資料が見つからないので実際の経験者のお話によるしかないのですが、被弾した八禮丸が岩内港へ避難したのち、グラマンは午前11時ころに町の上空に現われたそうです。
会津さんのお話では、岩内山側からもグラマンの飛来があったということ、しかも港のみならず、民間の市街地にも機銃掃射を打ち込んでいたということが分かりました。
そして平成29年には、やはり民間人が岩内沖で犠牲となっていたことが親族の証言で明らかとなり、報道されました。攻撃を受けたのは、その日に軍の食糧を運ぶために徴用されていた、民間の漁船でした。![]()
(平成29年8月14日付 北海道新聞)
この町に残る、戦争の記録の一つです。
posted by 岩内町郷土館 at 2025年07月15日12:40 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 7年度第二回企画展「終戦80周年記念企画展 岩内と沖縄戦」
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(岩宇4町村 岩内、共和、泊、神恵内の沖縄戦戦没者が亡くなった地域、人数を表した図)
戦後80周年を記念し、郷土館では「岩内と沖縄戦」というテーマで企画展を開催しています。米軍が上陸、激しい地上戦が行われた沖縄戦では、多くの北海道出身兵が派遣され、その地で亡くなっています。北海道出身兵士は、最も多い沖縄県出身者の次に多い10,805人。その中で、岩宇の4か町村出身戦没者を調べると196人となっています。
沖縄は戦後、27年間という長い間米国の統治下にあり、1972年5月15日、日本国の本土へ返還されました。米国統治下の沖縄へは、ビザがなければ本土の人間は行くことができませんでした。何万もの戦没者の遺族たちは、その場所へ参ることもできず、骨ひとつ拾うこともできなかった。戦没者の遺骨収集は、戦後すぐに地元の沖縄県民の手によってはじめられましたが、国の遺骨収集事業が本格的になるのは昭和50年代で、北海道という遠く離れたところから、その戦地を訪れるのも容易ではなかったでしょう。
北海道民と沖縄をつなぐ戦争の歴史は、これまで広く知られることが無かったというのが現在の状況なのではないでしょうか。
そうした中、昨年6月に郷土館で再発見された、海軍羽田次郎少将の遺品が、今回の企画展の原点となりました。![]()
羽田次郎氏は佐渡のご出身ですが、海軍学校に入る前の若い頃に岩内の親族のもとに身を寄せた時代があり、この家の娘、キンと結婚しています。そのご縁で郷土館へ羽田氏の遺品が残されたのでした。
この遺品について、興味をもち独自に調べた歴史愛好家の方から、羽田氏は沖縄戦の末期に、海軍司令官として自決した、大田實中将とともに自決した6名の幹部のうちの一人であるということが判明したと知らされます。大田實司令官は自決の前に、壊滅的な戦況の中、一般沖縄県民の献身的な軍への協力に心から感謝し、「沖縄県民かく戦えり 県民に対し後世特別のご配慮を賜らんことを」と懇願する電文を、本土の大本営に向けて発信しました。
資料調査をすすめていく中で、太田司令官とともに自決した羽田大佐(死後少将へ昇格)が、やはり死の直前に自分の部隊の部下たちへ、心から労いの言葉をかけたという様子も知ることができました。
大田司令官らが自決した戦跡「旧海軍司令部壕」は、現在見学施設として整備され、沖縄の人々によって守られています。今回の企画展では、こちらより写真資料等をたくさんご提供いただきました。![]()
(沖縄県 旧海軍司令部壕パンフレットより)
岩宇の沖縄戦戦没者の歴史と、沖縄戦における海軍将校の歴史。この二つの側面から、北海道から遠く離れた南の島で繰り広げられた、同胞たちの戦闘を見つめたいと思います。地元の戦史から、少しでも戦争への関心が広がり、歴史を次世代へ伝えて行くことができればと思います。「忘れないこと」が、まず大切であると。(R)![]()
(昭和17年頃 岩内駅 出征兵士の見送り)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年07月11日14:41 | Comment(0) | TrackBack(0)
余滴小ばなし | 明治末期〜馬車追いの名手、亀田という男
明治末期、岩内では馬が客車をひく「馬車鉄道」が運行、町から函館本線小沢駅まで鉄道交通があり、岩内を往来する旅人や貨物は、小沢から函館方面、または札幌旭川方面へと移動することができました。この岩内馬車鉄道ができたのは奇跡にも等しく、もしこれがなかったら、当時の北海道交通網から岩内は零れ落ちてしまい、その後の町の繁栄の歴史は無かったかもしれません。岩内馬車鉄道は歴史上、そんな重要な意味を持つ鉄道でした。
しかし、現在もそうであるように北海道の鉄道にとっての大きなウィークポイントとなるのが、冬の季節。深い雪に埋もれてしまう線路に、除雪経費も膨大にかかります。明治の昔もそうでした。なので、岩内馬車鉄道はもっとも単純な解決策として、レール上に積もった雪をどけることはせず、その上を馬橇(ソリ)で運行することにしました。
「馬車追い」とは、馬車や馬橇を保有し、馬を繰って人や荷物を運ぶ御者のことです。馬一頭を使いこなす一匹オオカミ。当時の運送業の主流です。この意気、男伊達たるや、後の時代の「トラック野郎」の源流かもしれません。
この馬車追いの馬橇を会社で一手に集め、冬季の運行も滞らせずに行おうとしたものでしたが、のちには「馬車追い組合」が結成されて、馬鉄会社とは別の運営となりました。
さてその馬車追いの中に、亀田という男がおりました。背丈は小柄、衣服はいつも大き目というこの亀田、しかし操る馬橇は馬もよし腕もよし、とにかく早い、快適と評判の馬車追いでありました。
岩内で弁護士をしていた山本孝治という名士は、小沢駅と岩内の行き来にはいつも、一台貸切の馬橇を使っていました。あるとき、小沢駅から岩内へ帰る時に、この亀田を指名してこう言いました。
「岩内まで一時間で行けるか? それもひっくり返さずに行けたら運賃を倍額出すぞ。ただし横転したら一文も払わないが、どうだ?」小沢から岩内の馬橇は、一時間半以上かかるのが普通、到底無理だろうと彼は思っていました。
亀田はそれを聞くや、山本弁護士にすぐに乗るように勧めました。乗るが早いか、あれよという間に出発。一面の雪原に、馬を走らせていきました。
曲がり角では見事な手綱絞りでコーナーワーク! 急坂も凹凸もモノとはせず、振動もほとんどありません。いつもなら乗り物酔いのひどかった山本弁護士でしたが、乗り心地のとてもよい車中でふと時計を見ると、出発から五十分ほどがたっていました。
「何分くらいかかりましたか?」という亀田の声が聞こえて来たので「五十分だ」と返して、山本弁護士が囲いを開けて外を見れば、早くも壁坂、岩内の町の入口でありました。そこから自宅まで、町内を徐行して五分。所要時間は五十五分でした。
これ以降山本弁護士は、馬車追いはかならず亀田を、一時間倍額で指名したということです。彼こそ、確かに馬車追いの名手であった、と山本弁護士は晩年の回想に記録を残しています。
…こんな感じの小話を、これから少しずつ紹介していきます。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月28日13:28 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 西海岸鉄道を願い続けた88年
(昭和10年代〜昭和40年代の岩内線延伸をめざした路線地図。3点)
明治30(1897)年、武藤清兵衛と安達定吉による実測調査を踏まえた、北海道後志西海岸を走る函樽鉄道運動のはじまりから、昭和60(1985)年の国鉄岩内線廃止によって、その運動が永遠に実現不可能となるまでの88年間。この間に幾度となく、日本海沿岸を通り南へとつながる鉄路の実現に向けて、岩内では運動が行われていました。
昭和12(1937)年、「後志西海岸鉄道期成同盟会」が発足。この時は岩内〜寿都〜島牧〜瀬棚間の鉄道敷設運動がおこり、沿線の町村長の連名で請願書が提出されましたが、折しも大東亜戦争勃発。戦時の情勢下で実現ならず。
また、戦後の昭和20(1945)年には「岩内線鉄道期成会」が結成。岩内〜黒松内間の鉄道運動がおこり、戦後産業復興の波に乗り昭和28年には、建設予定線に編入。しかし、その翌年昭和29(1954)年には岩内大火が発生。
(昭和28年2月18日付『東京朝日新聞 北海道版』。鉄道建設審議会により、新岩内線の建設案も浮上。青函海底トンネル建設案が出ていた時と、同じ時期であった。)
「黒松内−岩内間鉄道(四六・六`)=函館本線黒松内駅から寿都鉄道に沿って北上し、日本海岸に沿う歌棄、磯谷の諸部落を経て、雷電峠の山すそにトンネル数か所を掘り、函館本線小沢駅から分かれる岩内線の終端岩内駅に至る。沿線の日本海は海産物に富み、雷電峠付近には鉄鉱石が出る。」
昭和38(1963)年には、岩内線延伸着工を早期に実現させるため「岩内線建設促進期成会」が発足します。しかし、なかなか岩内線の着工、起工は始まりません。
新線の計画は、既存の寿都鉄道(寿都〜黒松内)の国鉄買上げも予定に入っていました。岩内から湯別〜黒松内という計画でした。ようやく岩内線着工が公に発表されたのが、昭和44(1969)年のこと。
(昭和44年10月1日付 『北海時報』 岩内線着工を祝した内容)
(新しい鉄道は、既存の黒松内〜小沢を9.3q短縮できる)
そして、昭和47(1952)年には岩内町で起工式が行われましたが、新線の実現はならず、昭和60年の国鉄岩内線廃止をもって、西海岸鉄道長年の夢はついえてしまいました。
背景には国鉄からJRへの分割民営化、自動車の普及、昭和38年に開通した、岩内〜寿都間雷電国道の開通ももちろん関わってきます。寿都から岩内へのバス運行がはじまり、鉄道はどんどん使われなくなっていきました。![]()
(雷電国道の開通)
さて。この幻の西海岸鉄道を辿る、バスツアーを現在検討中!(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月24日15:37 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 古写真の現在地
明治時代の岩内を写した写真が、郷土館にはたくさん収蔵されています。今回の企画展でも馬車鉄道やレールの様子が見られる写真を展示しましたが、場所を特定したり、写っている建物や人物のことがつまびらかになると、ますます面白くなるのが写真資料の楽しいところ。
(現在の中央通り交差点、7-11付近)
セブンの角地は、古写真ではかなりハッキリと「薬舗」の看板が写っています。これは当時ここで営業していた「カネ森薬店」であると、郷土研究家の森柳司氏に教えて頂きました! その南隣に「九皐堂(きゅうこうどう)」という書店。向かいには料亭「金精楼」がありました。
ちなみに壁坂の古写真にも薬屋さんが写っていますが、こちらは当時の「上田薬店(現在は酒屋さん)」なのだそうです。
(明治時代。壁坂十字街)
百年昔の風景が心に残ると、今同じ場所を歩く時、なんだか不思議な気持ちになります。
ここに古い時代から道があるのは、大きな意味があるのだなあと。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月22日11:05 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 明治の函樽鉄道運動
(明治29年 函樽間鉄道運動出金者名簿)
「岩内の地は、所謂函館に七分、小樽に三分の位置なり、故に函館はむしろ海岸をしかりとし、小樽はじかに倶知安に出るを主張するは何ぞや。これ他なし商業取引の途を途絶し、倶知安の利益を奪わんとする野心あるに外ならず。而して札幌地方は如何に、倶知安マッカリベツ赤井川方面大地積を占め一攫千金にするの奸策あるや、疑うべからず。」
「今や、函樽間鉄道の請願すでに上り、第十議会に付せられんとす。岩内人士たるもの、この機に望み線路変更の運動刻下の急務にあらずや。」![]()
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函館と小樽を繋ぐ鉄道。現在の函館本線が予定線となり、鉄道の敷設が始まるというとき、岩内では武藤清兵衛と安達定吉により、そのルートを岩内経由の海岸線にするべく、独自で測量調査を行い、図面を作成し、鉄路の完成によって岩内、後志はもちろんのこと、広く全道に及ぶ経済効果をうたい、その計画を当時の鉄道院へ建言しました。
しかし、実際に鉄道が敷設されたのは、倶知安を通る山線(現在の函館本線)となりました。鉄道運動の発起人趣意書では、「真狩、狩太(ニセコ)、倶知安の原野を取得した貴族院議員たちの、私利私欲によって函樽鉄道路線が決定されたのではないか」という疑義を、強い口調で呈しています。
元々、倶知安の中心を抜け赤井川を通るはずのルートでしたが、岩内の猛運動により小沢、セトセを通る現在のルートに変更され、明治38年に岩内から馬車鉄道を運行、函館本線小沢につなぐ路線が完成しました。
この度の企画展「岩内馬車鉄道〜国鉄岩内線への始走点」では、武藤、安達らが明治29年に完成させた「函樽鉄道概要図」も展示しています。幻の西海岸鉄道です。
(明治29(1896)年 函樽鉄道 磯谷郡から余市郡の概則図)
(この当時はまだ、岩内町政前。都市部の南側、岩内山山麓付近を通す予定だったのですね。)
(雷電岬と熊野山の黄色部分は、隧道、トンネルを通す予定)
(稲穂峠にもトンネル。明治時代にみずから資金を出し、百日以上かけて測量調査を実施した岩内の武藤、安達。現代のトンネル難工事の実情とも、全く重なるような図面です。スゴイ!)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月18日14:42 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 令和7年度岩内町郷土館 開館です!
第一回企画展「岩内馬車鉄道〜国鉄岩内線への始走点」開催中です! 〜6月15日(日)まで。![]()
みなさまご無沙汰しております! 郷土館ブログの更新も手つかずとなってしまい、大変失礼を致しております。継続こそ力。初心に返り、あらためて活動を記録していこうと思いますので、今後とも何卒よろしくお願い致します。
2010年10月に、郷土館のホームページが開設され、同時にこのブログページがスタート。15年目となります。企画展も、毎年さまざまなテーマで開催されており、岩内の歴史文化を発信。あらためて、岩内地方の歴史資料の奥深さを再認識しております。いつもながらたくさんの方々にご協力をいただき、心より感謝申し上げます。
2025(令和7)年度の本年は、「岩内馬車鉄道」開業120周年、「国鉄岩内線」廃止40周年。幻の岩内西海岸鉄道の歴史もまじえた企画展を開催中です! みなさまのご来館、お待ちしております。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月17日11:02 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 令和6年度第一回企画展開催中です!
郷土館の本年度第一回企画展は「懐かしや少し昔の暮らしぶり〜郷土館お宝・珍品展part.10」というタイトルで絶賛開催中です! 思い出の中にあるちょっと昔の暮らしの道具や、子供達にとっては新しい発見もたくさんあります! ぜひご家族皆さんでお楽しみください!![]()
開催期間は6月9日(日)までです。![]()
今年で十年目をむかえる「お宝・珍品」の特別展示は、明治の農学者「津田仙の扁額」です。岩内安達牧場、安達農場の開拓者、安達定吉に贈られたものです。ちなみに津田仙の娘は津田梅子、今年新たに発行される日本銀行券五千円札の肖像になる女性です。
衣食住の昔の暮らし道具や、昭和時代の「折込チラシ」は見ごたえありますよ〜。
posted by 岩内町郷土館 at 2024年05月09日09:36 | Comment(0) | TrackBack(0)