岩内町郷土館ブログ
岩内町郷土館でのイベントやお知らせ、
岩内町に関する情報や岩内町の様子などを発信しています。
お知らせ | 7年度第二回企画展「終戦80周年記念企画展 岩内と沖縄戦」
(岩宇4町村 岩内、共和、泊、神恵内の沖縄戦戦没者が亡くなった地域、人数を表した図)
戦後80周年を記念し、郷土館では「岩内と沖縄戦」というテーマで企画展を開催しています。米軍が上陸、激しい地上戦が行われた沖縄戦では、多くの北海道出身兵が派遣され、その地で亡くなっています。北海道出身兵士は、最も多い沖縄県出身者の次に多い10,805人。その中で、岩宇の4か町村出身戦没者を調べると196人となっています。
沖縄は戦後、27年間という長い間米国の統治下にあり、1972年5月15日、日本国の本土へ返還されました。米国統治下の沖縄へは、ビザがなければ本土の人間は行くことができませんでした。何万もの戦没者の遺族たちは、その場所へ参ることもできず、骨ひとつ拾うこともできなかった。戦没者の遺骨収集は、戦後すぐに地元の沖縄県民の手によってはじめられましたが、国の遺骨収集事業が本格的になるのは昭和50年代で、北海道という遠く離れたところから、その戦地を訪れるのも容易ではなかったでしょう。
北海道民と沖縄をつなぐ戦争の歴史は、これまで広く知られることが無かったというのが現在の状況なのではないでしょうか。
そうした中、昨年6月に郷土館で再発見された、海軍羽田次郎少将の遺品が、今回の企画展の原点となりました。
羽田次郎氏は佐渡のご出身ですが、海軍学校に入る前の若い頃に岩内の親族のもとに身を寄せた時代があり、この家の娘、キンと結婚しています。そのご縁で郷土館へ羽田氏の遺品が残されたのでした。
この遺品について、興味をもち独自に調べた歴史愛好家の方から、羽田氏は沖縄戦の末期に、海軍司令官として自決した、大田實中将とともに自決した6名の幹部のうちの一人であるということが判明したと知らされます。大田實司令官は自決の前に、壊滅的な戦況の中、一般沖縄県民の献身的な軍への協力に心から感謝し、「沖縄県民かく戦えり 県民に対し後世特別のご配慮を賜らんことを」と懇願する電文を、本土の大本営に向けて発信しました。
資料調査をすすめていく中で、太田司令官とともに自決した羽田大佐(死後少将へ昇格)が、やはり死の直前に自分の部隊の部下たちへ、心から労いの言葉をかけたという様子も知ることができました。
大田司令官らが自決した戦跡「旧海軍司令部壕」は、現在見学施設として整備され、沖縄の人々によって守られています。今回の企画展では、こちらより写真資料等をたくさんご提供いただきました。
(沖縄県 旧海軍司令部壕パンフレットより)
岩宇の沖縄戦戦没者の歴史と、沖縄戦における海軍将校の歴史。この二つの側面から、北海道から遠く離れた南の島で繰り広げられた、同胞たちの戦闘を見つめたいと思います。地元の戦史から、少しでも戦争への関心が広がり、歴史を次世代へ伝えて行くことができればと思います。「忘れないこと」が、まず大切であると。(R)
(昭和17年頃 岩内駅 出征兵士の見送り)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年07月11日14:41 | Comment(0) | TrackBack(0)
余滴小ばなし | 明治末期〜馬車追いの名手、亀田という男
明治末期、岩内では馬が客車をひく「馬車鉄道」が運行、町から函館本線小沢駅まで鉄道交通があり、岩内を往来する旅人や貨物は、小沢から函館方面、または札幌旭川方面へと移動することができました。この岩内馬車鉄道ができたのは奇跡にも等しく、もしこれがなかったら、当時の北海道交通網から岩内は零れ落ちてしまい、その後の町の繁栄の歴史は無かったかもしれません。岩内馬車鉄道は歴史上、そんな重要な意味を持つ鉄道でした。
しかし、現在もそうであるように北海道の鉄道にとっての大きなウィークポイントとなるのが、冬の季節。深い雪に埋もれてしまう線路に、除雪経費も膨大にかかります。明治の昔もそうでした。なので、岩内馬車鉄道はもっとも単純な解決策として、レール上に積もった雪をどけることはせず、その上を馬橇(ソリ)で運行することにしました。
「馬車追い」とは、馬車や馬橇を保有し、馬を繰って人や荷物を運ぶ御者のことです。馬一頭を使いこなす一匹オオカミ。当時の運送業の主流です。この意気、男伊達たるや、後の時代の「トラック野郎」の源流かもしれません。
この馬車追いの馬橇を会社で一手に集め、冬季の運行も滞らせずに行おうとしたものでしたが、のちには「馬車追い組合」が結成されて、馬鉄会社とは別の運営となりました。
さてその馬車追いの中に、亀田という男がおりました。背丈は小柄、衣服はいつも大き目というこの亀田、しかし操る馬橇は馬もよし腕もよし、とにかく早い、快適と評判の馬車追いでありました。
岩内で弁護士をしていた山本孝治という名士は、小沢駅と岩内の行き来にはいつも、一台貸切の馬橇を使っていました。あるとき、小沢駅から岩内へ帰る時に、この亀田を指名してこう言いました。
「岩内まで一時間で行けるか? それもひっくり返さずに行けたら運賃を倍額出すぞ。ただし横転したら一文も払わないが、どうだ?」小沢から岩内の馬橇は、一時間半以上かかるのが普通、到底無理だろうと彼は思っていました。
亀田はそれを聞くや、山本弁護士にすぐに乗るように勧めました。乗るが早いか、あれよという間に出発。一面の雪原に、馬を走らせていきました。
曲がり角では見事な手綱絞りでコーナーワーク! 急坂も凹凸もモノとはせず、振動もほとんどありません。いつもなら乗り物酔いのひどかった山本弁護士でしたが、乗り心地のとてもよい車中でふと時計を見ると、出発から五十分ほどがたっていました。
「何分くらいかかりましたか?」という亀田の声が聞こえて来たので「五十分だ」と返して、山本弁護士が囲いを開けて外を見れば、早くも壁坂、岩内の町の入口でありました。そこから自宅まで、町内を徐行して五分。所要時間は五十五分でした。
これ以降山本弁護士は、馬車追いはかならず亀田を、一時間倍額で指名したということです。彼こそ、確かに馬車追いの名手であった、と山本弁護士は晩年の回想に記録を残しています。
…こんな感じの小話を、これから少しずつ紹介していきます。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月28日13:28 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 西海岸鉄道を願い続けた88年
(昭和10年代〜昭和40年代の岩内線延伸をめざした路線地図。3点)
明治30(1897)年、武藤清兵衛と安達定吉による実測調査を踏まえた、北海道後志西海岸を走る函樽鉄道運動のはじまりから、昭和60(1985)年の国鉄岩内線廃止によって、その運動が永遠に実現不可能となるまでの88年間。この間に幾度となく、日本海沿岸を通り南へとつながる鉄路の実現に向けて、岩内では運動が行われていました。
昭和12(1937)年、「後志西海岸鉄道期成同盟会」が発足。この時は岩内〜寿都〜島牧〜瀬棚間の鉄道敷設運動がおこり、沿線の町村長の連名で請願書が提出されましたが、折しも大東亜戦争勃発。戦時の情勢下で実現ならず。
また、戦後の昭和20(1945)年には「岩内線鉄道期成会」が結成。岩内〜黒松内間の鉄道運動がおこり、戦後産業復興の波に乗り昭和28年には、建設予定線に編入。しかし、その翌年昭和29(1954)年には岩内大火が発生。
(昭和28年2月18日付『東京朝日新聞 北海道版』。鉄道建設審議会により、新岩内線の建設案も浮上。青函海底トンネル建設案が出ていた時と、同じ時期であった。)
「黒松内−岩内間鉄道(四六・六`)=函館本線黒松内駅から寿都鉄道に沿って北上し、日本海岸に沿う歌棄、磯谷の諸部落を経て、雷電峠の山すそにトンネル数か所を掘り、函館本線小沢駅から分かれる岩内線の終端岩内駅に至る。沿線の日本海は海産物に富み、雷電峠付近には鉄鉱石が出る。」
昭和38(1963)年には、岩内線延伸着工を早期に実現させるため「岩内線建設促進期成会」が発足します。しかし、なかなか岩内線の着工、起工は始まりません。
新線の計画は、既存の寿都鉄道(寿都〜黒松内)の国鉄買上げも予定に入っていました。岩内から湯別〜黒松内という計画でした。ようやく岩内線着工が公に発表されたのが、昭和44(1969)年のこと。
(昭和44年10月1日付 『北海時報』 岩内線着工を祝した内容)
(新しい鉄道は、既存の黒松内〜小沢を9.3q短縮できる)
そして、昭和47(1952)年には岩内町で起工式が行われましたが、新線の実現はならず、昭和60年の国鉄岩内線廃止をもって、西海岸鉄道長年の夢はついえてしまいました。
背景には国鉄からJRへの分割民営化、自動車の普及、昭和38年に開通した、岩内〜寿都間雷電国道の開通ももちろん関わってきます。寿都から岩内へのバス運行がはじまり、鉄道はどんどん使われなくなっていきました。
(雷電国道の開通)
さて。この幻の西海岸鉄道を辿る、バスツアーを現在検討中!(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月24日15:37 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 古写真の現在地
明治時代の岩内を写した写真が、郷土館にはたくさん収蔵されています。今回の企画展でも馬車鉄道やレールの様子が見られる写真を展示しましたが、場所を特定したり、写っている建物や人物のことがつまびらかになると、ますます面白くなるのが写真資料の楽しいところ。
(現在の中央通り交差点、7-11付近)
セブンの角地は、古写真ではかなりハッキリと「薬舗」の看板が写っています。これは当時ここで営業していた「カネ森薬店」であると、郷土研究家の森柳司氏に教えて頂きました! その南隣に「九皐堂(きゅうこうどう)」という書店。向かいには料亭「金精楼」がありました。
ちなみに壁坂の古写真にも薬屋さんが写っていますが、こちらは当時の「上田薬店(現在は酒屋さん)」なのだそうです。
(明治時代。壁坂十字街)
百年昔の風景が心に残ると、今同じ場所を歩く時、なんだか不思議な気持ちになります。
ここに古い時代から道があるのは、大きな意味があるのだなあと。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月22日11:05 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 明治の函樽鉄道運動
(明治29年 函樽間鉄道運動出金者名簿)
「岩内の地は、所謂函館に七分、小樽に三分の位置なり、故に函館はむしろ海岸をしかりとし、小樽はじかに倶知安に出るを主張するは何ぞや。これ他なし商業取引の途を途絶し、倶知安の利益を奪わんとする野心あるに外ならず。而して札幌地方は如何に、倶知安マッカリベツ赤井川方面大地積を占め一攫千金にするの奸策あるや、疑うべからず。」
「今や、函樽間鉄道の請願すでに上り、第十議会に付せられんとす。岩内人士たるもの、この機に望み線路変更の運動刻下の急務にあらずや。」
函館と小樽を繋ぐ鉄道。現在の函館本線が予定線となり、鉄道の敷設が始まるというとき、岩内では武藤清兵衛と安達定吉により、そのルートを岩内経由の海岸線にするべく、独自で測量調査を行い、図面を作成し、鉄路の完成によって岩内、後志はもちろんのこと、広く全道に及ぶ経済効果をうたい、その計画を当時の鉄道院へ建言しました。
しかし、実際に鉄道が敷設されたのは、倶知安を通る山線(現在の函館本線)となりました。鉄道運動の発起人趣意書では、「真狩、狩太(ニセコ)、倶知安の原野を取得した貴族院議員たちの、私利私欲によって函樽鉄道路線が決定されたのではないか」という疑義を、強い口調で呈しています。
元々、倶知安の中心を抜け赤井川を通るはずのルートでしたが、岩内の猛運動により小沢、セトセを通る現在のルートに変更され、明治38年に岩内から馬車鉄道を運行、函館本線小沢につなぐ路線が完成しました。
この度の企画展「岩内馬車鉄道〜国鉄岩内線への始走点」では、武藤、安達らが明治29年に完成させた「函樽鉄道概要図」も展示しています。幻の西海岸鉄道です。
(明治29(1896)年 函樽鉄道 磯谷郡から余市郡の概則図)
(この当時はまだ、岩内町政前。都市部の南側、岩内山山麓付近を通す予定だったのですね。)
(雷電岬と熊野山の黄色部分は、隧道、トンネルを通す予定)
(稲穂峠にもトンネル。明治時代にみずから資金を出し、百日以上かけて測量調査を実施した岩内の武藤、安達。現代のトンネル難工事の実情とも、全く重なるような図面です。スゴイ!)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月18日14:42 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 令和7年度岩内町郷土館 開館です!
第一回企画展「岩内馬車鉄道〜国鉄岩内線への始走点」開催中です! 〜6月15日(日)まで。
みなさまご無沙汰しております! 郷土館ブログの更新も手つかずとなってしまい、大変失礼を致しております。継続こそ力。初心に返り、あらためて活動を記録していこうと思いますので、今後とも何卒よろしくお願い致します。
2010年10月に、郷土館のホームページが開設され、同時にこのブログページがスタート。15年目となります。企画展も、毎年さまざまなテーマで開催されており、岩内の歴史文化を発信。あらためて、岩内地方の歴史資料の奥深さを再認識しております。いつもながらたくさんの方々にご協力をいただき、心より感謝申し上げます。
2025(令和7)年度の本年は、「岩内馬車鉄道」開業120周年、「国鉄岩内線」廃止40周年。幻の岩内西海岸鉄道の歴史もまじえた企画展を開催中です! みなさまのご来館、お待ちしております。(R)
posted by 岩内町郷土館 at 2025年04月17日11:02 | Comment(0) | TrackBack(0)
できごと | 令和6年度第一回企画展開催中です!
郷土館の本年度第一回企画展は「懐かしや少し昔の暮らしぶり〜郷土館お宝・珍品展part.10」というタイトルで絶賛開催中です! 思い出の中にあるちょっと昔の暮らしの道具や、子供達にとっては新しい発見もたくさんあります! ぜひご家族皆さんでお楽しみください!
開催期間は6月9日(日)までです。
今年で十年目をむかえる「お宝・珍品」の特別展示は、明治の農学者「津田仙の扁額」です。岩内安達牧場、安達農場の開拓者、安達定吉に贈られたものです。ちなみに津田仙の娘は津田梅子、今年新たに発行される日本銀行券五千円札の肖像になる女性です。
衣食住の昔の暮らし道具や、昭和時代の「折込チラシ」は見ごたえありますよ〜。
posted by 岩内町郷土館 at 2024年05月09日09:36 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」開催中です
ボーイスカウト日本連盟100周年+1を記念しての企画展です。大正時代、「岩内少年団」をいち早く創設、さらにボーイスカウトの世界大会に日本人として参加するため、開催国であった英国に渡航し、日本の少年団を世界中に知らしめた、下田豊松の功績を紹介しています。
ところが、この下田豊松について、よく知っているという方は町内でも少ないのです。
上の写真は、郷土館内にも常設展示されている、皆さんご存じの国産アスパラガスの生みの親、下田喜久三博士が「(株)日本アスパラガス」の会社を設立した時の記念写真です。この写真の中央は喜久三ですが、一番左端にに写っているのが、下田豊松。
実は喜久三博士の兄であり、アスパラガス験農場の開設など、喜久三のアスパラガス研究の陰の協力者であり立役者でもあったのです。豊松は岩内の下田商店本店、倶知安支店の経営で、肥料や米穀取り扱いや運送業など手広く商いをしました。また少年団の創設はもちろん、公益事業や酪農開拓など、さまざまな分野で功績を残されています。
下田豊松の功績の資料を紐解くと、一体どこから手を付けていけばよいのか、正直迷ってしまいます。
まずは、一介の商人である豊松が、なぜ英国ロンドンに赴くことになったのか?
1920(大正9)年。下田豊松は「ボーイスカウト世界大会および国際ジャンボリー」に参加するために、英国ロンドンに渡航します。
そもそも「ボーイスカウト運動」とはいかなるものか?
1907(明治40)年、英国の退役軍人であり、英雄の称号を持つベーデン・パウエルが、キャンプや共同生活を通して、青少年の健全な育成をはかるための少年団(ボーイスカウト)を創設。その高い志や理念、手法は、英国から世界中に広がり、日本にも伝わってきます。
明治末期〜大正時代にかけて、東京、静岡など各地で少年団が創設され、北海道では1915(大正4)年に旭川少年団が、1916(大正5)年に下田豊松により岩内少年団が発足。豊松が団長となり、当時の尋常高等小学校男子500名が団員となりました。
いったいなぜ、それほどまでの覚悟が必要だったのでしょうか? (つづく)
posted by 岩内町郷土館 at 2023年10月07日15:01 | Comment(0) | TrackBack(0)
お知らせ | 第二回企画展「岩内黒澤写真館とレトロカメラ」開催中です
皆さまご無沙汰しております!
郷土館では現在、本年度第二回企画展「岩内黒澤写真館とレトロカメラ〜お宝珍品展part9〜」を開催しています。
黒澤写真館は、明治20年〜平成21年まで120年余り続いていた老舗写真館。その黒澤写真館の歴史と貴重な写真機材、古写真などを特別展示しています。期間は8月27日(日)まで。
黒澤の銘が入った印半纏は、文様の部分が「岩内港」となっています。港あっての岩内、その心意気がカッコイイですね! 明治大正〜昭和〜平成の時代をつぶさに記録してきた写真館の歴史は、町の歴史や国の歴史とシンクロしています。展示の暗箱カメラはすべて、閉館後に黒澤写真館から寄贈された貴重なものです。ピント版ガラスから、どうぞ被写体を覗いて見て下さい。往時の写真師の精緻な技術に、触れる体験ができるかもしれません。
(大正四年 岩内尋常高等小学校)
郷土館に収蔵されている古写真のうち、もっとも古いのは明治20年代〜さらに昭和初期までのものが150点ほどありますが、そのうちの三分の一が「黒澤写真館」の台紙となっています。岩内町内にとどまらず、後志管内各町村で撮影されたものもありました。
そして凄いと思うのは、100年以上前の写真であるのにもかかわらず、くっきりと明瞭な画像が残されているということ。コンピューターなど無い時代、すべてが技師の目、感覚で撮影されたものは、現在のデジタル技術など及びもつかない、精巧な写真となって残されています。何十人もの集合写真で、最前列も最後列も人の顔がくっきりと見える。こうした技術を代々受け継いできた写真館でした。
結婚し、写真館の仕事を共に支えて来た、四代目館主黒澤允晴さんの奥様のお話が印象的でした。
「集合写真を撮るときには、シャッターを押すまでがかなり長いんです(笑)。ちょっとした服のズレや手元をきれいに直していただいたり、上から下までチェックしてなかなか撮影に入れないので、写される側も困っていたほどでした。そのくらいこだわっていました。」
「でも、やっぱり出来上がった写真を見ると、誰も文句のつけようのない最高のものが出来るんです。子供の成長の写真、婚礼写真の仕事もたくさんありました。最後は病を押してでも仕事をして、もうこれ以上はという、最後までシャッターを押し続けていました。」
(梅澤市太郎長男梅澤栄太郎の写真が多い。上客だったのか?)
明治からの気骨が入った、生粋の職人魂を感じました。
時代が変わり、フィルムカメラがすたれ、デジタルカメラとなり、いまや一億総スマホカメラ。ただ、写真はデジタル記録、消費される情報、そんな軽いものとしての存在でしかない? はずがない、と思います。家族の思い出の蓄積、人の歴史物語、そして町の歴史物語まで、見る人の心に語り掛けるあらゆる物語が、一枚の写真から浮かび上がってきます。
最後の館主であった黒澤允晴さんは、かつて新聞の取材にこう語っています。「時代は変わって仕事も少なくなってきましたが、写真館で撮る写真には、特別な意味があると思います」
(昭和十四、十五年頃 黒澤写真館一族 札幌市黒澤優子さん提供)
posted by 岩内町郷土館 at 2023年07月23日11:29 | Comment(0) | TrackBack(0)
ひとりごと | 「あ〜よかったな」と思う事
このたびの、第一回企画展「雷電国道の歴史」のチラシ、ポスター図案に使用させていただいたのは、実は町内在住個人の方よりご寄贈いただいた、写真の中の一枚でした。1963(昭和38)年に開通した雷電国道ですが、路面はまだ砂利を敷いただけ、海岸にせり出す国道はガードレールすらありません。しかし、当時の岩内の人々は喜んで家族でドライブ、観光を楽しみ、思い出の写真を残しました。
「親爺の自転車の後ろに乗って、連れて来てもらった思い出がある」という60代の方もいらっしゃいました。
そして、現在40代の方は「雷電の野営場で子供の頃キャンプした」という方も。当時から、岩内青年会議所のメンバーが夏休みキャンプを企画実行するなど、現在と同じように子供たちのために活動をしています。
郷土館の展示でいつも「あ〜よかったな」と嬉しく思うのは、一人一人の来館者の記憶に繋がるものがあったという時。
個人の記憶や思い出が、町の歴史に繋がる場所へきちんと記録されているということは、大事なことだと思います。郷土館のある意義や「町史」を残して置く意義は、表面的なところではなく、深いところにあるように思います。たくさんの人に学ばなければと思います。
もちろん、初めて岩内に来たという方に楽しんで頂けるような、岩内の魅力を伝えることも大切。先日は、東京から初訪問の方に、あいにくのお天気で残念というので、「でも荒波の日本海を楽しむなら今日ですよ!」とご案内しました〜(笑)。
きっと連休は、もう少しあったかくなりますね! 皆さん岩内でお待ちしております!
posted by 岩内町郷土館 at 2023年04月22日16:45 | Comment(0) | TrackBack(0)